pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

堀辰雄文学記念館ーかげろふの日記ー


 ほんとうに久しぶりに軽井沢に来た。

 16日に書類の整理をしていたら、夏、娘が置いて行ったそのパンフが出てきたのだ。行こうと思いつつ些事にかまけたままに忘れていた。7月から12月5日まで。丁度、来月までの間は休養期間である。10日間の勤務の給与も入る。季節は日に日に冬支度を急ぐ。旅行は平日に限る。という事で、翌日池袋発のバスに乗った。往復5千円。ホテルも5千円少々。

 軽井沢駅前は昔よりだいぶ変わった。しかし、オフシーズンの平日、人影もまばらである。閉ざしている店もチラホラある。

 軽井沢と言えば旧軽の通称「銀座通り」と言うのが観光の目玉らしいが、その通称が示す通り、俗っぽさ満開の商店街に過ぎず、周囲に散らばる高級別荘などは元より私には無縁である。しかし、客引き蕎麦屋まであるのには驚いた。

 私にとって、軽井沢とは堀辰雄の終焉の世界であり、彼の作品が生まれた世界であるという事だけに意味を持つのである。

 堀辰雄にとって軽井沢とは宿痾の結核治療を兼ねた世界だった。戦前から避暑地として名高い土地だったが、もちろん当時は現代の喧騒とは無縁だったろう。

 初日、午後2時半過ぎにしなの鉄道で2つめの信濃追分に降りた。そこからタクシーで堀辰雄文学記念館へ行った。

 静かな小さな記念館である。堀辰雄が最後に住んだ小さな家と彼が完成を心待ちにしていた書庫別棟、妻の多恵子氏の建てた住まいが常設館として残る。

 すべては堀辰雄に相応しい慎ましやかで整えられた調和を持つ空間である。どこかで似た雰囲気を感じたと思ったら、それは水墨画第二次世界大戦の悲劇、ヒロシマナガサキ、オキナワ、南京を描ききった丸木夫妻の建てた丸木美術館であった。
 また、安曇野にある碌山美術館でもあった。共通する静かな安らぎと品格がそこにあった。

 以前にも堀辰雄に触れたが、堀辰雄の作品に通底するのは静かに死と対峙する高い精神性である。若い時から肋膜炎すなわち肺結核を患っていた堀辰雄は終生おのが死と向き合い、師の芥川龍之介や弟のように可愛がった立原道造の死、養父や母の死を含めて、彼の作品に死がモチーフとなるのは必然的だった。

 よく、彼の作品を「軟弱」とか「女々しい」とかご高説を垂れる批評家が居るが、堀辰雄のそんな人生を斟酌した上での批評なら批評家としては話にならない。また、それを斟酌できないなら人間にもとる。
 確かに彼の作品ではプラトニックな恋愛がモチーフであるが、彼は私小説を作ったのではなく、純粋な観念的世界を作ったのだ。そんな堀辰雄の作品は戦前の文学では孤高であろう。

 『風立ちぬ』はそんな彼の作品の頂点に立つ。若き出征兵士たちが背嚢に忍ばせて行った書物がそれである理由が私には分かる。死と対峙しながらその気負いは淡々と描かれ、恋愛もまた淡々とした言葉で描かれた『風立ちぬ』は、だからこそ死も愛も際立つ。

 自分の死と格闘しながら、その苦痛を示さず、その苦痛を出汁に遣わず、そのような高踏的精神世界を描こうとした男が堀辰雄である。

 彼は軽井沢、追分の自然を吸収した。その自然は高原のサナトリウムを包む森や林であり、浅間山である。彼の描くその自然は写実に見えて写実ではない。堀辰雄というフィルターを通して描かれた精神的自然と読む。

そんな堀辰雄が晩年魅入られたのが日本王朝文学の精髄である、更級日記蜻蛉日記などである。(更級日記は彼が少年時代から愛読)


   折口信夫『かげろふの日記ー解説』
                      堀君 一
唐松の遅き芽ぶきの上を
夏時雨 はるかに過ぎて――
 黄にけぶる 山の入り日

     堀君 二
冬いまだ 寝雪いたらず
しづかに澄む 水音。
 君ねむる。五分 十分――。
 ほのかなる けはひののちに、
 おのづから ※(「目+匡」、第3水準1-88-81)をひらく。
日のあたる明り障子
たゞ白じろと ひろがり
見し夢の かそかなる思ひに つゞく


また、同じ文章より


併しつく/″\思ふと、「ホトトギス」の作者たちは、虚子・漱石から、四方太・三重吉に到るまで、皆何かえらさがあつて、人を安んじさせなかつた。堀君に思ひ比べると、其がまざ/\感じられる。同行の神西さんが東京へ帰つてから、名もない山の中を歩いてゐる。古代人が幻想したやうに、木の葉を一ぱい浴びた姿の死者となつて、佐保山の奥に、ほんたうに自分自身が迷ひ入つたやうな感じを書いてゐる。しかしどこまで行つても、山は明るかつた。明るいなりに、山は無気味にしいんとしてゐた。さうして暫らくして、又物音のする村里へ出て来る。

 


 折口信夫のこの「解説」はいわゆる解説ではない。
 堀辰雄への愛惜溢れた名文である。名文と言ったが、品格とその品格を裏付ける愛情が備わって名文となる。私は不勉強であるが、これ程の「解説」は他に知らない。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/42296_14245.html


 堀辰雄文学記念館の特別企画展で、私は堀辰雄の文字を見た。それは細くか弱な繊細さを感じさせた。それは同時に、常住坐臥、静かに死と闘っていた堀辰雄の全力を注いだ文字であった。


  さらしなは右
  みよし野は左にて
  月と花とを追分の宿

 この言葉は追分の分去れにある小さな石仏の台座に刻まれているという。今回は足を運ぶ余裕が無かったが、次回の楽しみとする。


 私は堀辰雄の入り口の世界にようやく辿り着いた。その記念館入り口には堂々たる本陣の門が残されていた。その門構えは死と向き合い、怯むことなく生きた武士に相応しく、堀辰雄に相応しい。

 


既に夕日が木枯らしのような風を運んでいた。
翌日は聖パウロ教会を見学して帰途に就いた。

 

 【追記】

戦争中のことである。そのころ私は日本出版会の学芸課長という大それた役目についていた。

文学者がなにかにつけて情報局あたりで邪魔ものあつかいされていることをよく知っている私は、
保身の術からも、時としては国策に協力した作品を書く必要があるのではないかということを口にした。
すると堀君は言下に、もの静かではあるが断乎とした調子で、
そんなことは、到底自分にはできない と云った。
私はそれを聞いて、自分を深く恥じた。
堀君は終戦後、自分は戦争中は大いに抵抗したというようなことを少しも書かなかったが
当時私の知っていたどの文学者よりも立派であったことを遅まきながら書いておきたい。
        「二つの思い出」河盛好蔵

http://tatsuno.shisyou.com/words.html#tsuioku-kawamori

 

 

パウロ教会、『風立ちぬ』にも登場する。遠藤周作の作品にも登場するという。ちなみに、遠藤周作堀辰雄に「よく勉強して宜しい、勉強するならとにかく1人を深く勉強なさい」というような言葉を貰った。
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