pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

震災について 方丈記

以下、二年近く前に書いたものです。

 

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雨が多すぎた。

夏からこの十月まで異常と感じられるほどの降雨であり、家の外では正体の分からないキノコが庭にあちこちに生えて、室内さえも黴臭さが感じられるほどだった。

 それは災害であり、農作物の収穫には懸念があり、観光地は閑古鳥の恐れがあり、家の中は湿気が抜けず、洗濯物を乾かすに難渋し、道を歩けば傍若無人の車に泥ハネを浴び、ろくな事は無い、うんざりである。と見れば大方は納得する。

わが事としては、歩けないのが困る。歩くことは私の日々の楽しみであり、また健康を維持する大切な方法なのだ。
長雨で思い出す小説があった。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』に描かれる、マコンドという土地に、四年十一ヶ月と二日間も降り続く雨は隠喩であるが、これほど降り続く雨を描いた作品は他にないのではないか。
それをつい思い出してしまうような長雨であった。

晩春から続いた今年の長雨は、単なる異常気象とは思えない不気味さがある。異常気象という言葉が毎年使われて、異常を感じなくなりつつある自分であったが、それでも夏以降の、あまたの台風の変則的襲来は、温暖化という現象の脅威を肌に感じさせるのに充分であった。各地で起きる洪水や崖崩れや気温の激しい変動は、人々の命を奪い農作物に深刻なダメージを与えている。人間の快適な生活への希求の結果としての人為が、地球温暖化という、気象の大変動にまで影響を与える姿は不気味さを増大させた。もとより人為がこれほど人間に対し脅威となることは歴史上、この、たった数十年のことである。それが日々の生活の場で今季も、「異常気象」として迫っているが、今世紀末には地球規模の「飢饉」の可能性を示唆している。


「また、養和のころとか、久しくなりて覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春夏ひでり、或は秋大風、洪水など、よからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとくならず。夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。これによりて、国々の民、或は地をすてて境を出で、或は家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行わるれど、さらにそのしるしなし」

  
方丈記のこの有名な記述は、平安末期の天変地異の惨状を、迫真にして簡明の筆致で描いている。干ばつと台風、そして大雨による洪水がもたらした飢饉。現在の推計で都の人口の四割ほどが餓死する有様で、都大路さえ餓死者が溢れ悪臭芬々たる姿だったという。飢饉の様相は、まさに地獄であろう。地方はいかばかりだったか。ただ、この記述の中で、


「いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻をとこ持ちたる者は、その思ひまさりて深き者、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子ある者は、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子のなほ乳を吸ひつつ臥せるなどもありけり」

ここの描写は泣かせるところだ。私の口語訳は次の通りである。

「たいそうあはれなこともあった。別れたり捨てたりすることのできない妻・夫らを持っている者は、相手への愛情がまさって情の深い者が必ず先立って死んだ。その理由は、わが身は次にして、相手をいたわしく思っている間に、たまに得た貴重な食糧をも、相手に譲ってしまうからである。だから、親子においては当然のことながら、親が先だって死んでいった。また、母の命が尽きたことを知らずに、幼い子がなお乳を吸いながら臥している姿などもあった」

飢餓の苦しさは言語に絶するものがあるという。
人肉食に走った旧帝国軍隊の話など、武田泰淳の『ひかりごけ』など・・・

しかし、方丈記にはこのような人間の姿も描かれている。

大飢饉の悲惨な中にも、いや悲惨はさらに増すのであるが、愛する相手に自分の糧を与えてよしとする、深い情を持つ人間の姿があって有難い。飢餓という地獄の世にあって、このような人間の深いやさしい姿を、自身も飢えに苦しんだであろう鴨長明が描いてくれたのである。

後世の私たちは鴨長明にどれほど感謝してもしきれないだろう。    

「あはれ」という平安文学の核心をなす言葉の意味も、こうして見ると、単に現代語の「哀れ」=「かわいそう」とか、「しみじみと」という訳で簡単に済むものではないだろう。現実への深い絶望や諦念、死が常に目の前にあってさえ、情愛を保つという覚悟の上に立つ、万感を込めた「あはれ」なのだと思う。まことに厳しい言葉と私は理解している。


鴨長明は次段で大地震にも触れているが、飢饉ほどの恐ろしさは描いていない。ただし、天変地異がそのように時を経ずして襲って来るなら、末法の世を悟るには余りあるだろう。そこに人為的災害が加わった。戦乱の世であった。

その地震であるが、世界的な地震活動の本格的な活発化は、日本でも極めて深刻な災害をもたらしている。
昨日も鳥取地震が大きな被害をもたらした。八月には熊本大地震が起きている。五年前には東日本大震災が起きたことは記憶に生々しいし、阪神淡路大震災など近年、大地震は多発している。その地震活動と連動するかのように火山活動も不気味である。最近知った言葉だが、破局噴火という壊滅的な大噴火も予想されているらしい。この破局噴火が阿蘇山などで起きた場合、日本が壊滅するというのだ。もちろん関東も降灰で麻痺する。


「日本列島で今後百年間に巨大カルデラ噴火が起こる確率は約一%です。この確率は、兵庫県南部地震 (阪神・淡路大震災) 発生前日における三〇年発生確率と同程度です。すなわち、いつこのような巨大噴火が起こっても不思議ではないと認識すべきです。最悪の場合、巨大カルデラ噴火によって一億二千万人の生活不能者 (注) が予想されます」 

 これはちょうど二年前に発表された神戸大学の巽好幸教授と鈴木桂子准教授の論文要旨からの抜粋だが、記述にある、生活不能者とは死者のことだ。その死者の大部分は餓死者となる。阿鼻叫喚の地獄世の出現である。海外からの救援も、この人数を救うことは極めて困難だろう。インフラもすべて壊滅するのだから。

そのような大自然破局的猛威のほかに、現代は世界各地での紛争や戦争に加え、温暖化という大災害を人間自ら招こうとしている。温暖化の行きつくところは地球規模の飢饉であるというが、そうならぬよう人間の叡智を期待するほかにない。万が一、そうなった場合に、鴨長明が記録してくれたような愛情に立脚した人間の姿は現れるだろうか。修羅一色の餓鬼地獄となるだろうか。


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近代以降も、まことに自然・人為の「災害」に事欠かない世界である。大量殺戮の時代である。

いま、安倍首相がトランプ大統領に会うために数千億円の武器購入を約束し、また北朝鮮の核廃棄のために約216兆円を日本と韓国で負担させられるという話もあるのだ。
間違いなく安部首相は日本の大人災の元締めであろう。

もちろん地震ほかいまだに無能無策、つまり庶民など眼中にない。

そんな中で、砂粒一つにさえならない私は、長雨で歩けないことに悩んでいた。自分の楽しみを失い、健康に不安を感じながら、汲々として日々を過ごしていたのだ。

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