2019-03-15 帰郷 ・ わずか一泊のとんぼ返りの帰省だった。直行便の高速バスで便利にはなったが、途中、常磐道の例の放射線管理区域をぶち抜いて走る。まぁバスの窓を開けることは無いが気持ちいいものではない。 午後2時半過ぎに到着。すぐ花と線香を求めて菩提寺へ。寺は相変わらず放射線測定結果を門前の広報版に貼り付けている。 紅梅も終わり、桜を待つばかりの里である。 震災当時、倒れた墓石が沢山あったが今は戻った。違っているのは被災者供養塔がそびえ立っている事と立派な永代供養塔が出来たことくらいか。私的には永代供養塔などは社会構造の激変のための過渡期の措置と見る。地方社会や家族の在り方が激変し、墓地自体が今後不要となる趨勢である。つまりを言えば、家族も解体し、個人がバラバラと浮遊する社会が近づいていると感じる。 そんな卑近な例の一つが我が実家である。 以前書いたが、曽祖父が維新後に山形から親戚を頼り槍を担いで当地に来て駅前に百貨店を開いた。祖父は市の信用金庫を開設するのに尽力した。しかし、やはり田舎、裏で土地の者たちからの余所者扱いの視線を感じながら暮らした。その祖父は菊池寛らとの文通が繁くあったが、幾度かの水害で、槍刀などとともにゴミとなった。 そんな祖父は子の育成を心がけ、私の父(三男坊)が旧制中学に入学する資金を阿武隈山地を徒歩で父と共に越えて親戚に借りに行ったという。折しも昭和の大不況は全国を覆っていたのだ。 寡黙な祖父で、長火鉢に座っている祖父は暴れん坊の父の目にも恐ろしく映ったらしい。祖父との記憶する会話は一言「どこに行く?」だったという。 前日、父は不良行為で旧制中学を退学処分となったのだ。それを隠して登校するフリの父に浴びせた一言だった。戦争目近の世相。荒れる父はナントカ三羽烏と後ろ指指されてながら、料亭などで芸者らと写真を撮っていたのが残っている。 その父の息子我々4人、今はバラバラとなった。 実家である駅前の従兄は独身を貫き震災後は一人広い屋敷に店を閉じたまま暮らしている。彼も下に3人弟や妹がいるが、弟は養子に入り妹たちは嫁ぎ、跡を継ぐ者は居ない。 私は墓参のときに顔を出すくらいだが、今回はとんぼ返りのため顔を出さなかった。会えば話は長くなるのだ。 ただ、夕食をとりに入った鰻屋で思わぬ話を聞いた。その鰻屋は婆さん一人で今も切り盛りしているのだが、私は去年初めて一度入っただけだが、私を覚えていた。他に客もない時間で、婆さんと話が弾んだが、その話の中に、駅前の従兄の話が出たのだ。 従兄が独身のまま過ごしている。それは田舎の人たちにも奇異な出来事であった。彼は見てくれも頭も良い。性格も温厚。見合いの口など幾らでもあったが、全て謝絶してきた。 実家の跡取り息子に嫁が居ない。私の父などもそれを懸念して伯父らにも相談をかけていたが無駄であった。 私もそれが不思議であったので、理由を尋ねた事もあったが、はぐらかされていたのだった。 その理由…まさか鰻屋の婆さんに聞くとは思いもしなかった。 「あのな、昔、彼が好いた娘がおったんじゃが、親に拒否されたんだってよ。それ以来、親がどんな縁談を持ってきても断ってたんだ」 思えば同情したくなる境遇では、あった。伯父は家父長制の名残りの男で家の存続のために優秀な従兄を地元の高校の商業科に行かせた。 そして、従兄の恋の相手を拒否した。謂わばかれの人生の大きな節目を2度潰したのだ。 こんな話が聞けたのはありがたい事だった。 従兄は無言で抵抗したのだった。母親のためでもあったろう。私から見ても優しく美しい伯母であった。 女嫌いでも何でもなく、それ以来独身を通した従兄で、既に70を越えて没念と暮らしている。今度はゆっくり話に行こう。