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pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

道行文 「曽根崎心中」



「この世の名残り、夜も名残り。死に行く身をたとふればあだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く夢の夢こそ哀れなれ。 あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め。寂滅為楽と響くなり・・・略・・・」

(やや長いので道行全文はこちらで ↓)

http://koten.sk46.com/sakuhin/sonezaki.html

古典演劇好きのお方には痺れるほどの名文句の綾織り文、近松門左衛門の『曽根崎心中』の道行場面です。
声に出さずとも口の中で朗唱していただければ、この文章の比類ない名調子と余韻が楽しめます。10分程^^。

さて引用した動機ですが、前日記にて道行について触れていらっしゃった方の為も含めて、この場面を自分なりに鑑賞したいということでアップしました。

江戸の封建制の強烈な因襲の中で、立場や身分の違いで添い遂げられなかった純愛の若者たちが最期に死を選んだ。そんな二人が心中に行く道の姿を描いたのが道行き文と呼ばれています。

先 の拙文「略奪愛と伊勢物語 」に於いて「略奪」してまでも添い遂げたいという思いが、ついに男を行動に移させてしまいます。しかし、それは「略奪」という手段で互いの愛を成就させた という読み方を私はしました。それがをんなの死を導いてしまいますが、肝心なのはその文章の(世界観の)類まれな美しさであり、絶唱とも言える歌の美しさ でした。時代は下がって江戸、強固な儒教道徳や家父長制の中で、思いを遂げられなかった恋人たちの中で、その思いを成就させる手段が心中だったわけです。

お初と徳兵衛の死出の旅はその文章の美によって、近松の思いによって浄められた、と思います。

「鐘の響きの聞き納め。寂滅為楽と響くなり・・・」

ここに鐘の音が出てきます。

この寂滅為楽、仏教語で検索すると、「寂滅」は煩悩の消え去った究極的な悟りの境地と出てきます。

さて、恋は盲目煩悩の極致?
ではないですね。
近松はお初と徳兵衛の愛の究極の境地に「悟り」を与えたのです。
とすれば、純粋な愛の赴くその終局点に「悟り」が生まれると近松は見たわけでしょう。

また、この鐘の音は、「悟り」と同時に「為楽」心のまったくの楽しみの状態を得られるというのですから、之は二人の魂の救済と見て良いでしょう。

キリスト教に於いて心中をどう見るか、ご存知のかたはご教示いただけると更に興味深い文化の違いが或いは共通する部分が見えてくるかもしれません。



純愛なんて映画の中だけとか思い込んでおられる方は、残念でした。