pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

逝く者は斯くの如きか昼夜を舎かず

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      子在川上曰、「逝者如斯夫。不舎昼夜」
                          『論語』子罕







      鳰てるやなぎたる朝に見渡せば
             こぎゆくあとの波だにもなし  西行


      ほのぼのと近江のうみをこぐ舟の
             あとかたなきにゆく心かな   慈円





今まで「 三夕の歌」で桑子敏雄さんの『西行の風景』を頼りに読んできました。


過去日記「三井寺~無動寺」
http://ameblo.jp/pakin0620/theme2-10064612902.html

に於いて取り上げたのが無動寺の西行と慈円の2人の歌人でした。


桑子氏も「凪たる朝」と題して著書締めくくりの後ろから2ツ目の章でこの歌を取り上げておられます。

老いた晩年の西行が若い慈円と無動寺で詠み交わす歌にまた深い情調を感じます。


人生を振り返り和歌(仏教思想)をこの朝陽に輝く鏡面の如き琵琶湖に詠み込みます。
湖自体が聖地とされた場所を無動寺から眺めやる心境は特別なものがあったでしょう。


桑子氏によって若い頃よりすでに「心静かな男」と評された西行の最晩年。

彼らから遠く隔たる孔子の前掲の一句が思い浮かびました。


      逝く者は斯くの如きか昼夜を舎かず


過ぎ去ってゆくもの・・・人も歴史もみなこの河の流れのように一瞬たりとも止むことなく過ぎ去っていくのか・・・

この感慨の中に発見された「時間」や「空間」の洞察は、遥かに時空の経だったた場所で西行と慈円の歌の中に
「あはれ」として描かれていると感じます。


西行七十歳になる文治三年(1187)、自歌合『御裳濯河歌合』を完成、判詞を年来の友藤原俊成に依頼し、伊勢内宮に奉納する。同じく『宮河歌合』を編み、こちらは藤原定家に判詞を依頼した(文治五年に完成、外宮に奉納される)。
                                               (  千人万首 より  )

この2つの伊勢神宮奉納は西行の求道者としての最後の仕上げであったのです。
本地垂迹思想、神道と仏教、本来相入れそうにない宗教(思想)、ややもすれば対立抗争の危険を内包した宗教を調和する試みです。どちらかを吸収併合するのではなく、並立共存で、革命的な転換であったわけです。正しく「止揚」そのものでした。

ただ、歌は弁証法止揚)ではなく、そんな新思想を歌として詠む時、歌は既に哲学や宗教思想そのものを超えた「詩」として生きていきます。

哲学や宗教思想は時間の中で古び、変質さえしますが、優れた「詩」はその作者の人生全体を内包しつつ時代とともに生き抜いていくものです。

西行が歌に託した思いとはまさしくそうであったに違いない。


「仏像を描き、真言を唱えること、このことと和歌を詠うことが同じだと西行は言う。」     『西行の風景』


同じ動機で同じ目的であって、しかし詠みだした歌はいわゆる真言ではないと思うのです。
それは「虚空」に達した西行の空虚なるこころ、歌に即して言い換えれば、それは「なぎたる」「鳰」のうみ。
静まり返った鏡面のような湖の水面。
朝陽に輝き天を映す湖の水面。


天を映すとき境界は消えていきます。
有限の鳰のうみも天と重なり溶解し境界の消えた無限の
虚空の中に西行は居る。
それは自我ではない、もはや空となった西行の姿でした。


これは、哲学や思想では表現し得ない巨きさを示します。
西行の成し得た和歌はだから後鳥羽院から「まねびなどすべき哥にあらず。不可説の上手なり」と別格の評価を得たわけです。


時代は平安末法の世、打ち続く戦乱、飢餓、流行病のなかで「地獄草子」の絵が迫真の力で人々の心を覆っていった時代です。

宗教だけが人々の心の救済を実践していった時代、西行は全国を旅し(命懸け)、つぶさにそのような地獄の「此岸」を直視しながら、道端や野に転がる死者を弔い祈り「彼岸」を求めたのではないでしょうか。


そんな祈りが「哥」となり、身分の低い西行は哥に於いて頂点を極めて行ったのでした。

新古今和歌集で西行に次ぐ若き慈円の歌はそんな西行への限りなき共感を詠っています。


ああ、また無動寺に行きたくなりました^^。