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三夕の歌
・さびしさはその色としもなかりけり
まきたつ山の秋の夕暮
寂蓮法師
・ 心なき身にもあはれはしられけり
鴫たつ沢の秋の夕くれ 西行法師
・ みわたせば花も紅葉もなかりけり
浦のとまやの秋の夕暮
藤原定家
(新古今和歌集巻第四)
高校の時に初めてこの歌に出会ったときの印象は大変強いものがありました。
古典の、特に和歌の言葉の深い余韻とその描く情景に惹かれたのです。
ただそれは絵画的イメージが強く先行していたようです。
そんな3首が私の中ではずっとくすぶっていました。
公式の解釈はわかるが、そんなものかなという判然としない心持ちです。
特にこの3年、下手の横好き、外聞もなく短歌を詠み始めてから、和歌のもつ精神性に関心を持つようになりました。
ただの叙景ただの叙情ではないという和歌への認識です。
過去日記において「今様から歌謡曲まで」をアップしたところで触れましたが、和歌とは本来神へ捧げる歌から、人間の止むにやまれぬ思いの表白としての和歌であったと思います。
そんな私がふと図書館で出会ったのが『西行の風景』でした。
桑子敏雄さんという哲学畑の先生の著書です。
驚きました。
読後、西行への見方が一気に深くなったように思います。
西行論は沢山ありますが、どれも面白くない中で、この著書ほど面白くまた西行像、西行の歌の解釈に於いて明確な見方を示してくれるものはありませんでした。
かの小林秀雄や白洲正子、など如何にてきとうな解釈をしていることかなどがよくわかります。
瀬戸内寂聴のは、あれは西行の名前を使った全くの創作です。
西行について私自身の創作『竹取幻想』で取り上げようと計画しましたが、頓挫したままなのは西行についての確信を明確に形成できなかったからでした。
「和歌即真言」という西行の思想を、桑子さんは天台密教に於ける「天台真言」から迫り、空海の真言をいわば止揚していきながら西行がたどり着いた真理であったと観ます。
真言ー仏教的真理を和歌において具現化しようとしたのが西行の和歌であると説きます。
難解極まる梵語、サンスクリット語にその真理を求めていた空海の発想に対し、日本語でかつ和歌の言葉でその真理を把握しようとした西行は、中国語やサンスクリット語に同等に対峙できる日本語という自信と実践を示したわけです。驚くべきことです。
シルクロード文化、中華圏の文化、なかんずく仏教という新思想への傾倒と必死の吸収の努力は同時に自国文化・言語を軽視するものです。
例えば、明治維新などでは、権力者側の教養が不足していたので一層酷い状態に陥り、結局文化・国家共々滅亡していきます。
西行の思想は全くそんな風潮に阿ることなく自身の咀嚼した仏教の真実を歌に表したのでした。
そんな歌の代表例が三夕に選ばれた歌です。
前置き、極めて不足ですが、眠くなりました。
ハチも足に絡みついて遊んでくれとニャーニャー騒いでいます。
次の日記で歌そのものを見ていきたいと思います。
写真、我が家に来たばかりの時のハチ、原発避難で我が家に^^。
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