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pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

三夕の歌 3 藤原定家 寂蓮



    

     見わたせば花も紅葉もなかりけり 

             浦のとまやの秋の夕暮                                
                            藤原定家






(巴琴勝手訳)
<ふと気づくと、どこにも花や紅葉の美しい景色はここにはない。冷たい潮風にさらされて、夕暮れの寂しい浦のあばら家があるだけだ。>



前日記において「モノクローム」という表現を桑子敏雄氏が使っていることを述べましたが、その世界は定家のこの歌によって深められていきます。


「作 者は、現実の海岸に立ち会っているかのように、花や紅葉といったこの世の現象を否定的に捉え、その否定性を浦の苫屋の秋の薄暮のなかに詠う。この寂寥こ そ、定家が(西行の)「鴫たつ沢」から読み取り、そして自分自身のやり方で表現した世界の本質である。夕暮れの風景のなかに西行が「あはれ」と表現したも のを詠おうと試みた定家は、鴫立つ沢からモノクロームの情景をとくに取り出して、海岸の風景に置き換え、静寂を表現した。「鴫立つ沢」の歌の真意を定家が 理解していることを示している」
                桑子敏雄 『西行の風景』



西行は晩年 『宮河歌合』という自歌合(じかあわせ)を伊勢神宮に奉納しましたが、その判詞(2首の優劣を判じる)を若き定家に委ねたことは,西行の歌の道に関する、定家への深い信頼を表してもいます。


花も紅葉もない・・・その世界を更に進めたのが寂蓮の歌でした。





         さびしさはその色としもなかりけり 

                   まきたつ山の秋の夕暮            
                            寂蓮法師




折口信夫がこの歌を、ただ槇の木がつっ立っているだけのつまらぬ歌と評しているようですが、折口も「たつ」という語の真意(前日記)を読めなかったと見るべきでしょうか。


巴琴勝手訳
<さびしさはその「色」というものさえない世界だ。色即是空。
さぎりの晴れたその一瞬、眼前にふと槇の木が立ち現れているこの山の秋の夕暮れのように>




「そ れは槇がつっ立っているという意味ではない。槇が立つというのは、槇が出現するという意味である。ここでは「夕霧」という言葉は使われていないが、「秋の 夕暮」と「立つ」という表現そのもののうちに含まれていると考えられる。槇は夕霧の中から突然現れる。秋の夕霧におおわれた山に、その霧が流れて、突然槇 の木が出現する。一面におおわれた夕霧の中では、すべての色は消え去っているが、その「色のない」モノクロームの「さびしさ」のなかで、一瞬霧が切れて、 槇が視覚的に出現するのである。
・・・・中略・・・・「つっ立つ」静的な解釈ではなく、「出現する」動的な解釈である。「鴫たつ沢」では、予期せ ず突然鴫が羽音とともに出現し消滅した。その空間の静寂に、時間性を含む空間の存在の根源性を感じ取った西行は、空間とみずからの「心無き身体」との関連 性を「あはれ」と表現した。それに応じて寂蓮は、同じように出現の空間を詠い、そこに見出した感動を「さびしさ」と表現したのである。
  鴫の出 現する空間に西行が心なき身を置くのと同様に、寂蓮は槇が出現する空間に、その出現を知覚する自己の存在を見出す。槇が立つ、出現するとは、その出現を目 撃する者自身もまた霧で覆われていたことを意味する。自己の身体も向こうに存在するはずの山もすべて霧に隠れている。そこに霧が晴れて槇が出現する。槇の 出現とそれを知覚する者の身体もまた現れるのである。槇とともに身体の配置が出現すると言っても良い。その風景と自己の身体存在との知覚的出会いを表現す るのが寂蓮の「さびしさ」であった。
   三首はともにモノクロームの「あはれ」、「さびしさ」をどう捉えるかという点をテーマにし、風景の空間的出現と自己の身体配置の関係を詠っている。」   
                                         『西行の風景』



小林秀雄
「(定家の歌は)もはや西行の詩境とは殆ど関係がない。新古今集で、この二つの歌が肩を並べてゐるのを見ると、詩人の傍で、美食家があゝでもないかうでもないと言ってゐる様に見える。寂蓮の歌は挙げるまでもあるまい。三夕の歌なぞと出鱈目を言ひならわしたものである」

流石に小林も西行にケチは付けられなかった。しかし、
出鱈目は、君。傍らの実際の美食家インテリも、君、小林君であった。
何か偉そうな態度を示さないとマズイ、そう考えたかどうかは知りませんが、批評家とか評論家という職業の怖さでもある。


「同様に西行の歌に対する「心の疼きが隠れてゐる」(小林秀雄)とか、「肺腑の底から絞り出したような調べ」(白州正子)などといった解釈が定家や寂蓮のみた西行の詩境といかに隔たっているかは明らかだろう」


                             以上「 」内 『西行の風景』より引用。