2015-08-07 やさしさというもの 1 ドトールでバスや電車の待ち時間を過ごすくらいがささやかな私の楽しみであるが、喫茶店で読書する習慣は学生になった頃からで、普段文庫本新書本などをバックに持ち歩いている。 昨日、たまたま書棚から抜き出した本が、久しぶりというより大昔読んだ宮本輝『泥の河』であった。 小栗康平の映画で観た『泥の河』も傑作であったが、原作を読み直すと、忘れていたり気付かなかったことが浮かんできて楽しいものである。 昭和30年の大阪の町は私はまだ4才、父の海運会社就職で大阪に来たばかりであったが、小説の舞台が安治川河口あたりで記憶には鮮明な場所が幾つもある。 大阪駅前にはビルが立ち並び始めていたが、そのビルの歩道には乞食の群れが座り込んでいた。傷痍軍人が多かった。 町の建設が始まっていてあちこち開発のトラックが走っていた。 爆撃で半壊したビルの一室に家族でひっそりと暮らしていた友人もいた。 家の前には在日の子がいてよく遊びまわったものだ。 在日の爺さんはその子の自転車を借りて乗り回した挙句壊してしまった私にもニコニコと可愛がってくれたものだった。 近所の年上の男子は、遊びに行くとご飯に醤油をかけて 「これ醤油かけると、ほんまうまいわ」と勧めてくれた。 『泥の河』の信雄は自分の町から外へ出なかったが、私には境界という意識はなく、知らぬ町あちこち遊びまわった。 藪に囲まれた池の端で豚に熱湯をかけて屠殺し、その血を飲んでいる「おっさん」たちを観て仰天したり、その池の上を水色に輝く糸蜻蛉がスーっと滑るように飛ぶ様に心を奪われたものだが、遊びの中心はビー玉とメンコだった。 負ける気が全くしなかったのでどの町でもだいたい勝利し、上着をまくりあげて戦果を入れて帰宅したものだった。 今で言う「へそ出しルック」の原点である。 リンゴの木箱2つほど貯めこんでは友人に分けたりしていたが、田舎に戻る時全部母が近所の子らに与えてしまった。 グリコ本社に景品をもらいに遠征したこともしばしばである。 「夏休みいうのは遊ぶためにあんねや。遊んで大きならんと、ろくなやつにならん。うちの一人息子をあんまりえらい人にせんといてや・・・・お父ちゃんがそない頼んでたと言うとき」 信雄の父晋平は宿題に精を出す信雄に酔いながら語った。ええとーちゃんや^^。私も多分宿題に苦しめられたはずだが、宿題をやった記憶が無い^^;・・・。 特攻崩れの若者が暴れた話を引き合いに晋平は言う。 「アホ、葉書一枚で女房や子供から生木裂くみたいに引き離されて兵隊に駆りだされていった連中に、勝ったも負けたもあるかい、生きたか死んだかだけじゃ・・・」 「なあ、のぶちゃん。一所懸命生きて来て、人間死ぬいうたら、ほんまにスカみたいな死に方するもんや・・・こないだ死んだ馬車のおっさん、あいつも、ビルマの数少ない生き残りや」 酔った晋平はシラフよりも優しくなるのである。 信雄にはそんな父がいつも身近にいたが、私の父は一旦出港すると長い時は数ヶ月航海していたので、たまに帰ってくる父に顔を合わせるのが恥ずかしかったという記憶がある。当時私にとっての父とはお土産の父でありました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ だらしなく書いて長くなりました。つづく。