pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

雪の日






昔、越後塩沢の鈴木牧之『北越雪譜』を読んだ事を思い出した。内容はあらかた忘れてしまっているが、雪国の博物学的書物で、その挿絵とともに江戸時代の雪国を不思議な思いで読んだ印象が残っている。

塩沢といえば今でこそコシヒカリの中心南魚沼郡会津コシヒカリとともに有名であるが、当時江戸からは僻遠未知の山里であった。

昔、草葺の平屋の家で雪が3メーターも積もっている数ヶ月のあいだ、人々の暮らしへの思いは如何であったろう。

その人々の雪への思いを一度福島の只見で伺ったことがある。

「11月になると気が滅入ってくる・・・毎日雲が垂れ込めて雪はどんどん深くなる。」言葉は少ない。

只見には白神山地ほどではないがブナの林が広く展開している。
ある年の10月、そのブナ林を案内されながら聞いたものであった。

その只見と新潟三条とは八十里越という山道でつながっている。
この道は戊辰の役の北越戦争の時に長岡藩随一の智将、河井 継之助が薩長軍に最後の一矢を報いた後、同盟会津藩へと歩んだのがこの八十里越である。

既に重症を負った彼は戸板で運ばれたらしい。
只見に着き自分の危篤を知った彼は死後の始末を言い残して逝った。

       八十里 腰抜け武士の 越す峠

河井 継之助辞世の句である。


私がそんな八十里峠道の只見側入り口に立ったのは十年ほど前のことである。10月、前述のブナ林を歩いた。錦繍が山々を包み、山道はふかふかの極上の絨毯であった。
そして、八十里入り口に立った。
その年の4月、私は病休を終え復職したが、夏、以前の職場での仲間がこの峠道の途中「変死」したのだった。彼は本物の山男でこの峠道で脱水症で死ぬとは考えられなかった。

彼が投宿した宿の主とともに花を置いた。
夕刻の日差しが紅葉を更に燃え立たせていたのを覚えている。

この峠道をいつか歩いていきたい。



昼過ぎに家の前の雪を掃いたが、もう道の雪は前のように積もっている。
更に夜までに深く積もるだろう。
目の前の窓の外にある枇杷の木からザザーッと雪が風に舞いながら落ちてきた。





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河井継之助記念館 只見
http://www2.ocn.ne.jp/~tadami/kawai.htm

八十里越
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8D%81%E9..

只見 ブナ黄葉他
http://fumikai.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post..

         <河井 継之助の言葉>
民を安ずるは恩威にあり。
無恩の威と無威の恩は、二つながら無益、基本は公と明とにあり。
公けなれば人怨まず、明らかなれば人欺かず、この心を以て、善と悪とを見分け、賞と罰とを行ふときは、何事かならざるなし。
有才の人、徳なければ人服さず、有徳者も才なければ事立たず

訳拝借
人々に平安をもたらすためには恩(情)と威(指導)が要る。
情のない力任せの治も、力のない情だけの治も、どちらも無益なものとなる。
基本となるのは公(公平)と明(公開)というところだ。
公平であれば怨み(恨み)が出ず、公開(明快)であれば欺きようがない。

こうした精神で善悪を明確にし賞罰を明解にするなら、出来ないことはない。
せっかく才能があっても徳のないヒトには、だれも付いて行かないし
また、徳深いけれども才能に欠けたヒトでは、仕事は達成されないものだ。
http://ayakasinin.at.webry.info/201105/article_1.h..







(TVでは狂ったように雪情報を垂れ流している。
ソチを同じように垂れ流している。
その愚かさに辟易する。)