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pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

父の思い出 2




父が旧制中学中退にも拘らず英語が出来たという点、ご質問を受けたので補足するが、それは写真に出した祖父の厳命だったと聞いている。
時局が三国同盟締結、国際連盟脱退と日本全体が神懸かり軍部の国粋主義となり、西洋文化排斥、英語フランス語などへの弾圧の風潮が高まっていく中で、田舎で商売を営んでいた祖父が父に勧めたのは英語をやれ!の一言だった。

私の弟筆頭が私以上の大ボンクラで、あろうことか医者なんぞで罪作りと蓄財をしているが、目先のはしこい男で何を思ったかルーツ探りをやった結果、
祖 父は明治維新後、米沢の上杉家から縁者を頼り槍一本担いで相馬へと流れてきたということが分かった。騎馬隊で槍を抱えて敵陣に突入するという、まあ最も単 純な任務である。その祖父の記憶は私にはないが、菊池寛らとの手紙の束が一山あったらしい。田舎住まいながら世相に明るい作家らとの交流に祖父の社会性は 培われたと見て良いだろう。そこから、時流に飲まれず、英語だ!という命令が出たのだろう。

父の言うには、祖父との会話は殆どなかった、「その英語をやれ」というのと、「何しに行く」の2つしか無かったらしい。

そんなことが結果父の運を左右したのであるから、貴重極まりない一言であったし、父も感謝していた。海軍に入って気づいたらしいが、実は海軍内では英語の重要性が高く認識されていたのだそうだ。そりゃあそうだ、公海にでれば海外とのやり取りは全て英語だ。

入隊後、船で船員として徴兵された人がソースを知らず、この醤油腐ってる!と叫んだことが印象に残っていたようだ。そこで、貧しい農村出の兵士の実情を垣間見たのだった。

貧しいと言えば、祖父の商売も昭和の大恐慌の煽りで貧苦に喘いでいたという事が、父の旧制中学校入学時のエピソードで分かる。
祖父は父の入学金を払えず、父を連れて阿武隈山地を徒歩で歩き通し、親戚に借りに行ったのだった。一昼夜の山行きである。
それでいて、グレて芸者遊びなんぞで放校処分になったのだから、祖父には絶対的に頭が上がらないのだった。
しかし、一度だけ祖父に頭が上がったことがあるらしい。

海軍入隊後、やはり隅田川辺りで漕艇訓練中、通りにける橋の上を見上げたら、祖父が橋の上から父を見下ろしていたのだそうだ。飛び上がらんばかりに驚いた父であった。飛び上がったら教官に川に放り込まれるは必定。
あの時、一度だけだったなオヤジに頭が上がったのは、と父は笑った。
何いってんの、祖父は橋の上から見下ろしていたんだぞ、なんて言えない。父は都々逸とかも好きで、それは冗談のつもりで言ったのだった。

そ の後、通信兵として軍艦に乗船し太平洋を走り回って敵艦との戦いに明け暮れたのだが、たまにブリッジに上がって見る夜間の砲撃戦は綺麗だったらしい。花火 を見る感覚だったようだ。ただ、初めて乗り込んだ船の主砲が炸裂した時はその音と振動に腰を抜かしたらしい。意外に気が小さいのである。

ミッドウェー島海域航行中、山本五十六の乗った一式陸上攻撃機を撃墜したという通信を傍受し、大いに落胆したという。終わった、そう思ったらしい。

前文で触れた呉沖の撃沈後であるが、海軍病院で入院中に大爆発音を聴いたがそれが原爆とは分からなかったらしい。しかし、ただならぬ気配が病院中に流れ新型爆弾であるということは掴んだようだった。
実際に広島の惨状を見るのは敗戦後、退院して広島の地に立った時のことであった。その惨状を父は何も言わないまま亡くなった。

私が中学の頃、父は船を降りて故郷に戻ってきたが、以降、父が寝ている最中に毎週のようにうなされる激しい声と宥める母の声を聞いていた。
父の悪夢を見る夜は父が認知症を患う晩年まで続いたのである。

父が亡くなる2年前に病院で健康診断の受診をしてもらったことがある。病院嫌いが認知症で加速していたので連れて行くのは大変だったが、そこで主治医にレントゲンの説明を受けた時、父の胸の奥に小さな影が写っていた。「砲弾の破片だ」と父は言った。
それは父が灰になった時、台の上に溶けずに残っていたのだった。