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「涙するまで、生きよ」
「涙するまで、生きよ」
とカミュは言った。
絶望の何たるか
希望の何たるか
人生と世界の関わりは何たるか・・・
「フランス人」教師ダリュ(ヴィゴ・モーテンセン)が子供達相手にアルジェリアの村の学校で黒板にアトラス山脈とアラビア語で美しく書いた。
その果の彼の沈黙の涙はカミュそのものではないか。
ダリュが助けようとしたモハメド(レダ・カテブ)は涙したか。
この優れた映画を年末に観たので、カミュの残してくれた言葉を今年の「日記」にしたい。
1
「世間に存在する悪は、大半が無知に由来するものだ。明識がなければ善い意志も悪意と同じほど多くの被害を与えることもある。一番救われない悪徳は、自らすべてを知っていると信じていることから、自ら人間を殺す権利を認めるような無知の悪徳をおいてほかにない。」
無知を自覚することからしか知性は生まれない。
ましてや他人の無知に乗じて悪を為すのは外道である。
究極は傲慢と強欲によって他人を殺すこと、殺させること、である。
2
「真に重大な哲学の問題は一つしかない。それは自殺だ。人生を苦しんで生きるに値するか否かという判断をすること、これが哲学の基本的な質問に答えることだ。」
苦しみぬいてなお思考できる人間でなければならない。
私はこの問いかけに「値する」と回答する。絶望のなかに希望が潜んでいることを知っているからだ。え?そんなのは本当の絶望ではない?嘘だと思うならそれは本当に絶望した経験がないからだ。ただし、このカミュの言葉も哲学上の命題として理解するべきである。
3
「労働なくしては、人生はことごとく腐ってしまう。だが、魂なき労働は、人生を窒息死させてしまう。」
「無益で希望のない労働以上に恐ろしい刑罰はない」
文字の通り。
特に若い人たちにこのような労働をさせてはならない。
20世紀はその深い反省から歩みだしたはずだ。
資本家の奴隷・家畜ではない。
4
「強い心、知性、勇気があれば運命の力を阻み、しばしばそれを逆転することが可能である。」
それを育むのが家庭であり学校のはずなのに、現実は真逆の家庭・学校である。
知性ではなく点数(我欲)、勇気ではなく差別心。強い心ではなく権力依存。
世相荒むわけだ。
5
「貧困は僕にとって必ずしも憎むべきものではなかった。なぜなら、太陽と海は決して金では買えなかったから」
貧困はもはや日本の社会問題である。アベが今までに海外にばら撒いたのは20数兆円という。貧しくなるわけだ。
しかし、貧困に対峙する精神がこの言葉にある。
それは「詩」を感じる心だ。
その「太陽と海」それは自然であると同時に「人間の連帯」「愛」であろう。だからカミュはまた言う。「貧苦とは、寛大さこそ美徳であるような状態だ」
6
「愛されないということは不運であり、愛さないということは不幸である」
これは当たり前。
「激しく愛するには、数少なく愛さねばならぬという理由がどこにあろうか」
これは難しい。
「涙するまで、生きよ」と言い切ったカミュのその言葉の「涙」の意味がここにある。
7
「意思もまた、一つの孤独である」
意思も
判断も
選択も
つまり、生きるということ自体が孤独である。
その孤独の集合こそが人間だ。
だからこそ、上記6番があるのだろう。
8
「人間は永遠の不正に対して闘うために正義を肯定すべきであり、世界の不幸に対して抗議するために幸福を想像すべきである」
その実現追求の宿命を人間は背負って生き続ける。
真逆の世界の中で。
日本の政治は国民の不幸と正比例する。
無関心もしくは短絡的に朝三暮四に明け暮れる中で、カミュの言葉を自戒としたい。
涙を流し続ける人へ、カミュの言葉が届きますように。
アルベール・カミュ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E..
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