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ちょっと一服ということで庭に出ると、楓の枝の向こうに満月が煌々と輝いている。
木の間より漏りくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり
(古今集 秋上・よみ人知らず)
裸木となった木の枝からならこの歌意もすんなり分かるが、葉の生い茂った木の枝の間からというイメージでは月の光もわずかに漏れくるくらいか。
木と木の間からと観ると、それは寝殿造庭園の人工を感じてしまう。
やはり、自然の森林の光景として私は感じたい。
小学校高学年のころ、田舎の母方の実家で夏の宵のひと時を過ごした時に屋敷の裏山を歩いた記憶がある。山とは言っても低山で、その山の真ん中を鉄道がぶち抜いていたが、夜汽車が通ることはわずかだった。
月明かりが木々の間から小道を明るく照らしていた。
半分に割られた山には橋が架けられており、その橋からの眺めも鮮明に記憶に残っている。
静かで風のここち良い夜だった。
月は円く友の様に感じたものだった。
今夜の月の印象もそのような幼かったころの感覚がそのままなのだろう。
もう一つ二つ。
これは大阪暮らしの小1くらいの事だが、やはり夏の宵。祭りで貰った子亀を家に持ち帰ったら母に海に帰してあげようと言われ、港近くの浜辺に一緒に行った記憶がある。コンビナートの灯りにさざ波が光っていたが、その波に乗って子亀はスーっと沖合に消えていったのだった。帰り道ふと見上げた空に満月がかかっていた。
もう一つは、それも夏だったか、父が休暇で帰国していたが、弟が生まれるというので母が入院していた病院が、市の中心部にある大きな病院だった。昭和も32年ころか。爆撃を受けた半壊のビルに友人家族がひっそりと住んでいる一方であちこち大規模な開発土木工事が行われていた。父とその病院からの帰り道にピンクがかった夕空の靄から満月がのっそり浮かんで見えたのだった。
今年の秋の実感は短いに尽きた。
それでも数日の美しい秋を感じることができたのだったが、もう師走も半ばである。
紅葉をすっかり落とした楓の枝にかかる満月もまた良い。
心づくしの冬は来にけりというところか。なに?秋ならわかるが冬に心づくしはおかしい?そうかな^^
この昼間より明るい夜。満月は地上のすべてを満たし天中が輝き庭の木々も公園の木々もみな月光を浴びて濡れるように輝き、家の中で四匹の猫は寝息を立てて眠っています。
そうだ、今日散歩のついでに立ち寄ったちいさなリサイクルショップでドン・キホーテの木彫りを見つけて買った。300円^^。細かな造作までよく彫り込まれているし表情が馬のロシナンテの顔とともに好ましく、つい・・・
以前、職場で私はドン・キホーテと陰口をたたかれていたことを思い出したのだ。それを伝え聞いたとき私は逆に喜んだのだった。懲りないおバカさんの私です^^。
写真、私^^