pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

風涼し夕暮れ時の湯舟かな


今年も快適な日々が続いています。
先日の骨折はどうもヒビが入った程度のようです。ヒビも骨折に入るのだとか。
しかし、通院目的という動機ができましたので毎日病院まで歩いています。

山の上の自宅から降りると国道に出ます。
その国道に無人販売所があるので、覗くと新鮮な野菜が百円^_^気にいるときは買って行きます。その無人販売所から右に入る小径を進むと河原に降りるのですが、その降りる場所にも、これはささやかな無人販売所があって、季節柄の新物が幾つか置いてあります。新玉ねぎ新ジャガイモなど日替わりに置いてあります。路傍には昼咲きの月見草が実に可愛らしく咲いていたり、気をつけて見るとホトケノザが咲いていたりと楽しいものです。

河原に降りてから川沿いの道を歩いていきますが、5月来の猛暑も日々濃くなる緑陰の川沿いを吹き渡る風に和らぎます。途中、岩場に腰を掛けてお茶で一服。


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そんな時間を過ごしながら1時間ほどで再び国道に上がり街なかまで歩きます。途中の家々の庭や畑の風情も良いですが、中に一軒、沢山の立派な水鉢にメダカを飼っているお宅があり、暫く見入ってしまいます。綺麗で可愛いものです。

そんな散歩がてらで片道1万歩くらい。帰りはバス。
通院のお陰で計14万歩ほど歩いています(^^)v
尤も、知人のお兄さんが70歳近いのですが、何をおもったか聖地巡礼とかでフランスからスペインのサンティアゴまで毎日20キロ70日間のコースを歩いているとかで、上には上がいますね。羨ましい^_^

散歩通院から帰宅すると午後になっています。
昼食の後少し昼寝をして庭の世話。骨の痛みが和らいでからは、2日間で梅の木2本の剪定、剪定と言ってもこの時期は徒長枝だけですが、これが結構大変です。伸び放題となっている金木犀や楓の剪定がまだ残っています。あとは夕方に鉢への水やりですが、キンジアナムやデンドロビウムが大半で20鉢以上に毎日やらねばなりません。風呂の残り湯をバケツに汲んで来ての水やりです^_^,もちろん倹約ですが、水道水よりも残り湯の方が植物には良いようです。

そう、先日、昼食に、例の趣味でやってるレストランへ1月ぶりに行きました。先月始めにはモッコウバラが2階のベランダを埋めて咲き誇っていましたが、今回は緑一色。遠くの山並みを眺めながらランチですが、広い靑空をゆっくり雲が流れる風景に風が実に心地よいのです。我を忘れていました。

さて、夕方、風呂に入ります。何と言っても、この季節は夕暮れ時の入浴が最高です。ルーバー窓を開けると冷えた風が吹き込んで露天風呂の感覚(^^)v火照った胸から上を撫でて行く風は至福の時間です。
また、太陽光の明るさは夕暮れ時とは言え電光とは違います。ゆっくりと暗くなっていく中で湯舟に浸かっていると我を忘れている事に気づきます。
シチュエーションはまるで違いますが、駄文の代わりに以下の詩を!


風が立つ!・・・生きる努力をせねばならぬ!

広大な大気が私の本を開いては閉じ、

波が飛沫となって岩をほとばしる!

飛び去るがいい、光にくらむページよ!

砕け、波よ!砕け 喜びに沸き立つ水で

三角帆が餌をついばんでいた穏やかな屋根を!


  (ポール・ヴァレリー 海辺の墓地より) 
   岩波文庫フランス名詩選 [ 安藤元雄 ]

長々と引用したのは他でもない、堀辰雄の「風立ちぬ」の冒頭の句「風立ちぬ いざいきめやも」の堀辰雄が誤訳をした部分と言われているからである。
ヴァレリーの、風が立つ!生きる努力をせねばならぬという1文を堀辰雄は「いきめやも」と訳した。つまり、それを現代語訳されば、「生きるのだろうか、いや、生きないだろう」という事になり、丸谷才一らがご丁寧に国語学者まで連れ立って「誤訳だ!」と散々に貶したのである。しかし、直訳で「誤訳だ!」と叫ぶレベルは、かの橋下氏が「誤報だ!」と喚くに等しく私には感じられる。

まず第一に堀辰雄は古語でそれを表した。なぜ古語でなければならなかったか。考えられるのが当時の軍国主義の社会である。古典的教養に欠る検閲軍人だから古語で書いて、これは「断じて生き抜く意味だ!」と言えば済む。「いや生きない」などと「弱気」な表現では、たちまち粗暴な軍人により発禁または修正を命じられるのである。軍部日本政治は左翼思想はおろか、自由的思想や弱々しいものまで検閲で弾圧したのである。
また、古語で表現すると、含意が深くなる。例えば「いきめやも」の「やも」は反語表現なのだが、反語という表現は「〜か、いや〜でない」という単純な否定の意味だけではない。否定的詠嘆と私は理解している。結核という不治の病を患う婚約者を前に、断定的に「いや、生きない」などと読む神経をまず疑う。否定的詠嘆と言ったが、それも現代語の、直訳では再現不能の深い嘆きを感じなければならない。その嘆きの根底に潜む心情はもちろん、死を克服して欲しいという切実な願いである。

次に、ヴァレリーの「生きる努力をせねばならぬ」だが、これも時代の荒波の中で、海辺の墓地に立ちながら、死者の魂に触れつつ呟く言葉であれば、単純に「努力をしよう!」で済ますのは安易過ぎるのではないか。私はフランス語も全く駄目だが、少なくとも詩を訳す場合、また、詩の語句を理しようとする場合はその詩の生まれた世界、背景を仮定しながら受容すべきと思う。そこでヴァレリーの語句であるが、幾多の死者の魂の前で、大戦を見たヴァレリー地中海世界キリスト教を内包させたこの詩に於いて、単純に「生きる努力!」と言う事はない。「生きる努力をせねばならぬ」という直訳も、裏返せば、死の絶対的魔力に全く無力な生が、絶望的苦悩を経て必死の認識に至った言葉として私は理解したい。そんな見方をすれば、堀辰雄の古語での「いきめやも」も、生への絶望的観念、婚約者の生を願う余りの「もう、お前は生きてくれないのか、いや、生きていて欲しい」というように私には理解できる。

「いざ」とは現代語訳では「さあ!」である。この「いざ」を始めに置いて「生きないだろう」では、文脈上、意味的には通じない。この、さあ!、は儚い生が死に無力に誘われようとする姿への、何としても生きていて欲しいという希いなのだ。


なんて、つらつらと思いながら我が駄文に戻ります。我を忘れる、無私になるという瞬間の甘美、その甘美の瞬間を永続的に得るならば畢竟それは死であるのでしょう。ところが凡愚丸出しで生きる私は次の瞬間「いい湯だっな〜〜ん、ああ〜ん♪」となっているのでした。
やっぱり。(~_~;)