ハァー 二遍返しで 済まないならば(ハァコラヤノヤ)
お国自慢の 流れ山 流れ山
(ハー イッサイコレワイ パラットセ)
伊達と相馬の 境の桜
花は相馬で 実は伊達に 実は伊達に
相馬相馬と 木萱もなびく
なびく木萱に 花が咲く 花が咲く
駒に跨り 両手に手綱
野馬追い帰りの 程のよさ 程のよさ
相馬は民謡の盛んな土地であった。上の唄は「相馬二遍返し」という唄である。
東は太平洋に面し西は阿武隈山系の間に在り、比較的に肥沃な農地と海の幸に恵まれ、更に歴史的には相馬氏の鎌倉時代初期から幕末に至るまでの七百数十年統治により、安定した風土であった。これは類稀な例である。
その歴史の中で、民謡が盛んになったと思うのだが、この「相馬二遍返し」について、歌詞は、ん?やたら郷土愛?
そう、郷土愛から生まれたのはどの民謡も全て同じだが、これは移住促進の宣伝なのである。江戸天明の頃、浅間山の大噴火で関東が甚大な被害を受けた後に数年に及ぶ冷害が東北を襲った。相馬藩もまた人口が3分の1に激減した。その時に二宮尊徳の弟子の藩士が尊徳の教えをもたらし、藩を挙げてその実践に取り組み復活したのであったが、尊徳が移民募集の民謡を作れと指示した話はないから、藩の誰かのアイディアだったのだろう。伝わっているのは、家老が移民政策を進め真宗の坊主が行動したという事実だけである。加賀、越中、越後、能登を中心に千数百戸が移住を果たした。もちろん、禁制の移住、逃散であるから、山越えを始め幾多の命の危険を省みずに行われた。
私の母は相馬の出で、父親は日本鋼管の社員だったが、講道館三段、嘉納治五郎直伝が祖母の自慢だった。太平洋戦争間もなく青島で戦死。祖母は相馬に戻り役場の仕事で母でらを育てた。その母は弟たちの世話を全てやりながら女学校を卒業した。特攻機が女学校の上空を旋回しながら消えていく様を何度か聞いた。そして、卒業間もなく、帰還した父との見合い結婚をしたのであった。
父の方は、過去日記に何度か書いたが、上杉家臣の家系で、維新後に山形から長槍1本担いで相馬に根を下ろした祖父が「離職手当」元手に駅前に「百貨店」を開いた、その三男坊である。その実家は、父の長兄が切り盛りしていたが、跡を継いだ従兄は独身を貫き、従って、実家は途絶える運命である。東北大震災、就中、原発大事故の後、彼は店のシャッターを降ろしたまま1人暗い奥の家にこもってしまった。既に70を越え、その暗い座敷に生涯を閉じるつもりなのだろう。
私の子どもの頃、相馬でも盆踊りは盛んだった。盆歌やら、そんな事も思い出した。いま全ては夢となったが、そんな夢を思い返す事ができるのも有り難いことである。
写真、城跡。高校の頃、授業を抜け出しては、ここの奥の神社の草原で昼寝をしたものだ。
この下に広いグラウンドがあり、そこで盆踊りが行われた。
亡き母の踊る姿や盆の宵