pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

美とは何か 渡辺玉花 紅葉賀

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「私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語である。」

 以前の文章で引用したエミール・ミシェル・シオランの言葉だが、この言葉は国家という政治的存在への本質的洞察だが、同時に人間の存在への洞察でもある。
 
「私たちは、ある国に住むのではない。自分の言葉の中に住むのだ。言葉とは自分である」と言い換えてもよさそうである。つまり、自分は言葉の中に存在する。


 更に言えば言葉というのは単なる記号ではない。例えば掲題のなかの「美」を取り上げれば、その一語で人間の感情や感性さらには思想まで含意するのだ。


 人間性心理学のアブラハム・マズローにおける至高体験というと大袈裟になりそうだが、 

至高体験は自我(自己)への執着を解き放つような作用を持つとされ、宗教的(神秘的)・芸術的(学術的)な『世俗の損得』から離れた次元において『至高の快楽・充足・恍惚』を個人の精神に瞬間的にもたらすものである。宗教的な神秘体験・超越体験というものも基本的に至高体験と同一のものであるが、一般的には、芸術活動(音楽活動・学術上の発見)や出産行為(生命の誕生)、政治権力の掌握(歴史的業績)の中で想像を絶するような歓喜と陶酔に溢れた至高経験を味わう人たちがいると考えられる。 」
http://digitalword.seesaa.net/article/95203662.html

 全く大袈裟である。実は私は心理学には殆ど関心がないがマズローだけは養護学校における生徒への指導で緩用させて頂いたことがある。

1、「生理的欲求
2、「安全・安定の欲求
3、「所属と愛の欲求(社会的欲求)」
4、「承認の欲求(尊厳欲求)」
5、 自己実現欲求

 1から順に満たされて行って最後の5の段階で自己実現欲求が生まれるという説であるが、子どもの発達段階を理解するにはわかりやすい(養護学校では全く理解されなかったが)。

 1~5まですべて人間的成長には必要な条件である。自己実現の段階は、おそらく私見でしかないが学齢期前には突入する。それを勘違いした者は自己実現を大人社会での在り方としてこの言葉を使用しているが間違いである。

 その自己実現至高体験(幸福)の中に掲題の「美」が現れる。エクスタシーである。それは宗教的な「法悦」からセックスに至るまで、「忘我」≒「死」あるいは「無」の絶対的快感を伴う点に共通点があるが「美」におけるそれはいかなものだろう。


 たとえば、子どもが夕景色にたたずんでウットリする、ビー玉の中を覗き込んで、その中の「小宇宙」に夢中になる、etc.
 それらは子どもが目を移した途端瞬時に忘れられるが、原初的体験として心に刻まれ、将来の契機を待って現れてくる、それが「美」意識だろう。美は陶酔である。それに囚われると音楽家や美術家になっていく。ラスコー壁画や埴輪の時代から現代に至るまで、その美的陶酔は本質的普遍的な人間的欲求だからこそ継承されてきた。

 美しい。そのような陶酔感が感じられれば十分であり、それは美術館や画廊の中にあるだけではない。マズローの述べる至高体験は私たち日本人には無数の体験できる対象が用意されている。路傍の花ひとつ取り上げればわかるはずだ。それが太古より継承され発展してきた日本的美意識である。

 自分の無知無能を忘れて話が大風呂敷になる前に、ささやかな自分の経験から申せば、以上の様に美≒陶酔≒忘我≒死となる。


昔、私は一枚の絵を買った。
渡辺玉花の「源氏物語紅葉賀」の日本画である。縦128センチ横165センチの大作で居間の壁面が狭く食堂の壁にかけている。

「源氏中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。 片手には 大殿の頭中将。容貌、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり。入り方の日かげ、さやかにさしたるに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足踏み、おももち、世に見えぬさまなり。詠などしたまへるは、「これや、仏の御迦陵頻伽の声ならむ」と聞こゆ。おもしろくあはれなるに、 帝、涙を拭ひたまひ、 上達部、親王たちも、みな泣きたまひぬ。詠はてて、袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、 常よりも光ると見えたまふ。

  もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の
         袖うち振りし心知りきや   」


 この紅葉賀の場面は抑制された表現の中に美しさが際立つのだが、つけ加えれば艶やかさをその言葉自体に感じる。口語文ではありえない、言葉自体が放つ艶である。思うに、明治以降の国語改革はそれまで培ってきた日本語の文章の美や艶を消し去ったのだ。言文一致の功罪両面である。日本語の文章はより平易に「近代化」されて、つまらなくなった。

 


 そんな源氏物語の世界を日本画で表すこの作品に心を奪われた。この絵は原作の日本語古文としての美しさ艶やかさに劣らぬ。絵では光源氏、頭中将ともに顔を描きこんでいない。

 「おももち、世に見えぬさまなり」(お顔はこの世にあるものとは思えないご様子である)
「詠はてて、袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、 常よりも光ると見えたまふ」(朗詠が終わり、袖をお直しになると控えていた楽人の賑やかな演奏が始まり、常よりも光り輝くご様子である)

 このように紫式部が言葉にした以上、さすが渡辺玉花は顔を書き込むことを避けたのだと思う。この世にない美しさを、書かないことで表す。余白の美同様の洗練された表現であろう。地には紅葉と菊が一面に浮彫に描かれている。この描かれた世界はこの世のものではない。全体が幻想的な美的世界として描かれた。

 

美とは陶酔、忘我。

例えばゴッホの描く椅子。

それはゴッホの底しれぬ孤独であり、愛惜であり、嘆きの世界だが、何と美しく感じられるか。それは観る方がゴッホの魂に少なからず共振するからである。つまり、観る方は描く人の魂に触れるのだ。

 

渡辺玉花のこの絵も同様である。

 


 この絵に見入る時は我を忘れる。源氏物語の言葉の美の世界が、絵として視覚的に傍にあるというのはありがたいことである。

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