pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

養護学校という暗黒

以下の文章は私個人の経験です。

 


 今まで時折触れてきた養護学校経験を吐き出そうと思う。

 それまで高校を渡り歩き、常に教員の暴力、管理職の横暴と無責任に向き合っていたが、その都度異動という人事で最後にとうとう進学校に送られた。しかし、そこでは最悪の暴力が体育のボスによって行われた。

 自分の支配する部活で、退部したいと申し出た生徒に全治2ヶ月の暴行を働いたのだ。この生徒は顔面がボールのように腫れ上がって、血の滲んだガーゼを貼りまくり登校してきた。尋ねたら、
「自転車で転びました」
という答えだったが誰が見ても異常な怪我の様子だった。

 この男には校長もへりくだる有様。私は生徒の保護者と連携し告発を狙ったが、保護者が腰砕けで終った。親も情けないが、保護者に圧力をかけたPTAなど校内権力の妾に過ぎぬ。この顧問は後に自分の部活生徒を進学させる為に調査書改竄を家来に命じ、それが後にバレて大問題となるが、その家来だけ詰め腹を切らせられクビとなった。

 

 更に付け加えれば、問題が発覚した時に教員や保護者からその体育ボスへの救済嘆願書が出されたという。もちろん、ボスの指図であるが、情けないなどと言うレベルではない。嘆願書を出した連中も同罪である。
 
 その時点で私は高校に絶望し飽き飽きもしていた。どの学校も金太郎飴よろしく、起きる問題も同じ。それで、全く未知だった養護学校を希望して異動した。この異動はあっさり決まった。後で知ったが養護学校に異動したいなどよほどの物好きだったのだが、当時、知る由もなかった。

 

 初めて養護学校に入って驚いた。100名近くの生徒たちの殆どが車椅子の姿。肢体不自由の養護学校と聞いていたが、実際は、重度の重複障害、病気を持った子供たちだった。中には医大から通学する生徒たちもいた。世界で数例しかない症例ですと医大教授らが見学者を引き連れて生徒たちを見せびらかし「自慢コレクション」する話も聞いた。
 
 教員は数名のグループで数名の生徒をみるが、更に教員はその中の子の、一人を責任持って指導する。新任の私に回された生徒は
「こいつはウンコしかできない」
それが中等部から彼を引き継いた時の唯一の「申し送り」だった。

そんな教師たちのなかには生徒たちにストレスをぶつけ、口の中に唐辛子を詰め込んだり、足蹴にしたりと虐待があった。

 

 彼らの授業と称するものも酷かった。「桜の花見」で自然を感じよう!と言って、桃色のチリ紙を刻んたものをひっくり返した傘に入れて揺する。桃色のチリ紙が子どもらの上に散らばる。絶句した。
 窓の外には満開の桜が花吹雪となっていたのである。笑えない悲惨である。
 正直私は教師たちの知能と品性を疑わざるを得なかった。また、彼らの保護者への対応ぶりは正反対の「優しさと慈愛」にみちていた。

 

 実際に、担当した生徒は当初は表現活動が殆ど見られなかった。いわゆる全介助で、僅かに低く唸り声をあげるくらい。目もまるで生気がなかった。

 その子との関わりが3年間続いたが、何のことはない、詳細は当時の私の記録にあり、群馬大学の教授に報告書を出し評価を得た事もあったが、彼の閉ざされた心をいかに開かせ、安心と優しさのなかで彼の心に潜んでいた表現活動を促すことが全てであった。

 彼は給食の好き嫌いも消え、自分でフォークを取り給食を平らげた。大声で笑い両手を振り回し喜びを伝えた。木琴やシトロンなどの楽器を叩いて感動の声をあげた。トトロの歌が大好きとなった。ある日の朝、朝会前に教室で彼と木琴を楽しんでいたら音楽教師が「ヤメテヤメテ!」と教室に叫びながら駆け込んできた。発狂したのかとゾッとしたが、その女教師の怒りは己の無能無責任さが彼の表現活動によって証明されたという怒りであった。

 

 この子との3年間は私の一つの宝となった。しかし、学校問題として重大な事が、着任の年に明らかになった。


 修学旅行である。二日間かけて旅行引率するのに医師はおろか看護士も同行しない。治療ケア不可能な養護教員が同行するのみであったが、前述のように、生徒の中には重度の重複障害の子どもたちも幾人かいたのだが、管理職や教員たちの問題意識はゼロであった。


 私の前任校は男子高だったが、元気極まりない生徒に看護士は同行していた。養護学校のみがこの有様。呆れるより恐怖を覚えた。この養護学校の世界には生徒の命の危険性への認識さえもが抜け落ちていた。


 万一、宿で重大な発症が起きたらどうするのか、看護士同行案を出したが奇異な視線を浴びただけであった。彼らから見たら私は高校から異動した養護学校に無知な教員でしかなかった。前述の生徒の目覚しい成長には激しい嫉妬を買っただけだったが、この問題は絶対に後に引けない。

 

 結局、巴琴が勝手に実現すれば良い、自分たちは関わらないということになった。
 さて、どうするか。
めぼしい病院の総師長に電話しアボを取り、医師か看護士の派遣を要請しに出かけた。全て土日か年休だ。片端から当たる中で、関東労災病院と東京小児療育病院の総師長やドクターが事の重大性を認識し、ボランティアでの派遣を快諾してくれた。

 

 それを学校に報告すると管理職も教員も顔が歪んだ(2〜3名の私に同調する男性教員以外)。校長たちは県教委から潰せと指示されていた。教員の方は組合が圧力をかけていた。養護教員の立場を守れということである。加えて、高校から異動したばかりの男が、それまで長く勤務してきた養護学校教員のプライドを傷つけた。連中は事の重大性を私の度重なる提案で理解はしたが、組合発の提案ではなかった。組合面目が丸潰れになる。彼らはつるむしか脳がない。

 

 後で知ったが、校長らは教員に脅しをかけて巴琴を潰せと指示していたのだった。脅しの内容は、お前の教員としての未来はなくなる、異動も不可能云々。

 

 修学旅行ではやはり夜中に生徒が熱性痙攣を起こし始めたが、同行していた関東労災病院の看護士によって事なきを得た。翌年は東京小児療育病院が、翌々年は私がボランティアで参加していた夜間中学に写真を取りに来られていたM.T先生が2年に渡り同行してくれた。M.T先生は埼玉で初めて生協病院を立ち上げた功労者の1人で、女医さんとしてまことに篤実に私にも対応して下さった。M.T先生は既に高齢で退職なさって久しかったが、2泊という体力的にも厳しい修学旅行でやはり夜中に奮闘して頂いた。素晴らしいご活躍だった。M.T先生はハンセン病問題でも国を相手に戦っていらっしゃった。

 

 管理職も表はボランティアで参加してくれた看護士さんや女医さんに感謝したが、陰湿な攻撃は続いた。表向きはできない。夜な夜な電話をかけてきたり、わたしの係る生徒の進路を変更させたりと日常化していった。4年目、私に同調していた男性教員の1人が自殺した。彼は真面目な仏教徒だった。彼の死後私は抑うつが悪化して休職したが、その年もM.T先生は参加してくれたのである。

 

 私にとって、休職は休養と同じであった。しかし、復帰し、早々に普通高校に異動したのだが、異動後に、もう一人の同調していた男性教員が真夏の東北の古道で変死体となった。若い彼は登山のプロだった。峠道で倒れることは考えられない。彼は私より早く高校からその養護学校に入っていた。


 亡くなった2人は能力も高く誠実な教員であった。彼らには私と違って面と向かった脅迫が行われていた。私は数名の同僚から証言を取り、その事実を知った。しかし、それぞれの奥さんたちは立ち直れない。私1人で校長を告発しようと弁護士会に掛け合ったが、それは民事で数十万円の賠償金で終わりとなる。それで、告発は取り下げた。

 

 教育局に別の組合を通し抗議し、教育長から謝罪文を取り付けた。また校長は私の自宅に謝罪に訪れて土下座した。

 

 また、養護学校修学旅行の看護士同行は、焦った養護学校の組合が自分たちの手柄として県に養護学校への看護士配置を実現させた。これは、私が運動を始めた時からの狙いであった。手柄の横取りは彼らの得意であり、看護士同行が実践的に行われて続ければ必ず彼らが動くと見ていた通りとなった。
 それで養護学校へのヘルスケアは実現したのだった。

 

 しかし、同僚2人の自殺の引き換えとも言える。
取り返しのつかない悲劇的な引き換えである。私の責任でもある。それは消えることのない私の罪
である。(同時期、私の活動とは関係ないが、隣りの養護学校でも着任早々に中年男性教員が自殺に追い込まれている)

 

 また、しかし、その4年の中で、担当した子どもや保護者との交流は得難い宝となり、また、関東労災病院の総師長、看護士さん、東京小児療育病院の女医さん看護士さん、M.T先生という素晴らしい方々との出会いは心の支えとなった。

 

 その頃から20年近く過ぎて、今ようやく吐き出すことができた。