pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

初冬

 

 初冬作贈劉景文  初冬の作 劉景文に贈る

                                                           北宋   蘇軾

 

荷盡已無擎雨蓋 荷は尽きて已に雨を擎ぐる蓋無く
菊殘猶有傲霜枝 菊は残われてなほ霜に傲るの枝あり
一年好景君須記 一年の好景君すべからく記すべし
正是橙黄橘綠時 正に是橙は黄に橘は緑なる時


起句
「荷」は蓮に同じ。「擎」は捧げ持つ。「蓋」は傘、すなわち蓮の葉の意。
承句
「殘」は損なう、「傲」るはものともしない意。
転句
「好景」は素晴らしい景色、「須(すべからく)」は「べし」とともに用いられて、是非〜してほしい、すべきだという意味。記は覚える。
結句
「正是(まさにこれ)」これは丁度、という比喩語。「橘」はミカン。


【巴琴勝手訳】

蓮の花はもうとっくに終わり、雨を防ぐに捧げ持つ蓮の葉も無い。
菊さえも随分傷んではきたが、見よ、枝は霜の厳しさをものともせずに居るではないか。
あなたには是非この一年の中でも素晴らしいこの景色を覚えておいてほしい。
ああ、これは橙が黄色に、橘が緑色の時だ。

 

 

 我が家の蓮も既に枯れて、水面にはその茎が残るのみ。蓮の葉を傘代わりにするのは映画でもよくある。トトロも持ってたな。

 今日は庭の楓の落ち葉掃きに精を出した。既に大木となり、敷地外の緑道までその落ち葉が覆っていた。
 今年の紅葉は鮮やかだった。寒暖差が明確だったからだ。その見事な紅葉が大量に薄茶色の落ち葉となって布団のようだが、本当に柔らかな枯れ葉である。ビニールの大袋にぎっしり詰め込んで五袋を集めで庭の空き地に積んだ。後日肥料と土を上に掛けて腐葉土にするつもりである。

 

 さて、上の漢詩、承句の菊の描き方が面白い。花は萎れても枝の強さに着目している。霜という容赦ない厳しさに耐える菊として描く。そう読むと転句の意味が察せられる。


 なぜ一年の中でその季節が素晴らしい景色の季節なのかと言うことだ。11月、季節の美として、余り注目されない月だが、そんな事はない。野菊も見事だ。晩秋の景色の味わいは深い。しかし、一年の中で素晴らしいと断言する蘇軾には、単に新奇な審美眼を誇るだけのような軽薄は無い。
 それが、結句の橘の緑という表現に表れているのではないだろうか…


 なぜ、晩秋の橘が緑なのか。橙が黄色と季節感として当たり前に描いておいて、橘が緑か。

 全く推測でしかないが、劉景文という人物への激励の暗喩詩ではないかと感じるのだ。

 


【巴琴超勝手訳】

 もはや、この世の風雨を避ける傘をさすこともできぬ君よ。
時代の季節は厳しい冬の霜の真っ只中だ。しかし、君よ、菊の如き香り高き君よ。厳しさに打ちひしがれそうになっても耐えよ。菊はほら、花萎れても枝をしっかり伸ばして居るではないか。
 愛する君よ。この一年の中で、いや人生の中で、この一番素晴らしい時を忘れる事なかれ。君と楽しく歓談したあの素晴らしい日々を。
 ああ、橙の実が美しく赤く色付き実るこの季節。若い君は端正にこれからも変わらず、あの橘のように頑張ってくれ。

 

 

 時代は北宋、絶えず金国などの侵入に外交の苦難と内政の困難を抱えながら、宋文化は世界に冠たる豊穣を示した。蘇軾こと蘇東坡はその代表的存在の一人で、自らも節を曲げずに左遷の憂き目を幾度も見てきた人物である。そんな彼の周りにも「同志」は存在していたはずである。そんな「同志」の一人が劉景文だったのではないか。直接的表現を避ける隠喩で劉景文に贈った詩として私は読んでしまった。
 
 ちなみに、橘は「非時香果」つまり、時に関係なく香り高い果実と、萬葉の時代から呼ばれています。また、永遠の象徴。文化勲章は橘の花。

橘の蔭ふむ路の八また(やちまた)に物をぞ思ふ妹(いも)に逢はずして
              万葉集 三方沙彌

 


もっと様々に想像を楽しみたいところだが、さあて、寝る時間。早寝早起きとは我ながら驚きの人生(^^)v

 

写真、ハチがベンチの上でモン太郎の肩に手をかけ、話しかけている所。


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