・
梅一輪活けて炬燵の昼寝かな
埋もれ火のふうとくずれて色いでぬ
今回の兼題は「炬燵」であった。他一句は自由題。
「梅一輪」で、予想通り宗匠からご意見頂いた。
梅一輪いちりんほどの暖かさ
「余りに有名なこの上五を使うのはどうかな?」
「服部嵐雪のこの句は人口に膾炙した名句である事は承知、しかし、「梅一輪」という表現は服部嵐雪の専売特許ではないです。」
実は「梅一輪」ではなく「梅ひと枝」と始めは考えたが、ややぼんやりとした表現である。やはり「梅一輪」がくっきりと情景が浮かぶ。しかも、必ず意見が出るだろうから、面白い!と考えた。
「梅一輪、ですか。ひと枝に一輪はなかなか」というご意見は残念ながら出なかった。
次の句はこれも予想通り「ふうとくずれて」に質問が出た。
「埋もれ火は炬燵の埋もれ火、火鉢の埋もれ火、囲炉裏の埋もれ火など、炭火ですね。巴琴さんはどのイメージですか?」と元京大の方からの質問が出た。
「そうですね。炭火としての埋もれ火です。囲炉裏や火鉢をイメージしています」
「ふうとくずれて」
この表現はなんとかならないかな。と宗匠。
[はい、あれこれと考えたのですが、私の頭ではどうも他に思い浮かびませんでした。埋もれ火の上にかぶった灰、その下の白い灰、それらを火箸でつつくと赤い埋もれ火が出てくる。そんな「灰」「白い灰」がくずれて行く様を他にどう表現したものか、思いつきません」
この句も私としては裏の意味がある。歳に関係なく美しき人はそうなのだということ。灰色を取り去り白い灰を取り去ればそこに熱い美しい思い=命が燃えているのだ。その「命」について考えていた。
星野富弘 「たんぽぽ」
いつだったか
きみたちが空をとんで行くのを見たよ
風に吹かれて
ただ一つのものを持って
旅する姿が
うれしくてならなかったよ
人間だってどうしても必要なものは
ただ一つ
私も 余分なものを捨てれば
空がとべるような気がしたよ
いま星野さんの詩を集中的に授業で扱っている。若くして事故により首から下が不随となった彼の人生と作品は子どもらに受け入れ安い。範読後、全員に朗読させる。朗読の経験は子どもらには僅か。
「朗読はすらすら読んではダメです。一文字一文字、丁寧にゆっくり、大事に読みなさい。作者の心を読むのです」
みな、不慣れな朗読を恥ずかしげに行う。
「さて、では質問。詩の中のリフレインがあるね」
リフレインという表現法はすぐ理解している。
「じゃあ、そのリフレインの「ただ一つ」ってなんだろうね」
「いのち、です!」
中学生がすぐ答えてくれる。少々驚く。
「そう!正解!普通は、種、と答える事が多いが一発で正解だね」
女の子は恥ずかし気である。
たんぽぽ=命=人間
と板書する。
「星野さんは、ベッドに横たわりながら、窓の外にふわりと飛んできたたんぽぽの種を見たのかな。そして子どもの頃に遊んだたんぽぽの花を思い出して書いた。星野さんの目には植物の命も人間の命も同じものと写っていた」
子どもたちは、と言っても3〜5人、中学生から高校生まで。安全第一で規則にがんじがらめされ鬱屈極まる日々をここで過ごしているが、その感性はみずみずしく新鮮である。
「つまりね、君たちの命もたんぽぽに、植物に同じ。余計なものを全て取り払えば命だけの存在ですね。そのたんぽぽの命が自由に空に舞いどこかに旅してまた芽を出し花を咲かせる。懸命にね。だから星野さんは「うれしくなっ」て、自分も同じように空を飛べる姿を思い描いたんだと思います」
まぁ、こんな事をやり取りした。
次回の句会の掲題は「春」1語をいれれば良い。「炬燵」は難しいとのみなさんの感想である。また、1人ニ句では時間が余るという事で1人四句と相成りました。
玉藻なるいのちの汀流れゐて輝きはなつ冬の子どもら
写真 ハチの足跡^_^とモン太郎
しかし、今日の昼、前の公園に誘ったら、雪を避けて、窪みの地面を飛び跳ねて来ました。