pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

ゆく春の匂ふ霞の野道かな


今年の春は駆け足で過ぎていくように感じられた。

蝋梅がまだ咲いているうちに梅や椿が咲き、すぐ桜が満開となり、桜の散る頃には新緑の眩しい山々。五月の花と思い込んでいた花水木が既に咲き、藤棚から紫の花房が降りている。

いやはや、一斉に花が開く今春である。

今日は巾着田まで歩いた。
菜の花が満開である。

 


『花』

            武島羽衣作詞
            滝廉太郎作曲

春のうららの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき

見ずやあけぼの露浴びて
われにもの言ふ桜木を
見ずや夕ぐれ手をのべて
われさしまねく青柳を

錦おりなす長堤に
くるればのぼるおぼろ月
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき

 

春の歌というとこの曲が浮かぶ。この曲が浮かぶ時は心の高揚が感じられる。私の中で曲のテンポは行進曲風に次第に上がり下手すると軍艦マーチ風になる。もちろん私は戦後世代だからあくまでパチンコ屋のイメージとなり、チン、ジャラジャラと…

それは大阪暮らしの小学1年か2年生の頃…と書くとこの希代の名曲が台無しとなるので思い出話は止める。

 

曲佳し歌詞佳し。
しかし、その隅田川、バカな東京では今は見る影もない。オマケに新知事は家庭内まで禁煙とか抜かす、ヒットラーも驚くファシストぶりであるから、都民の皆様も隅田川なんか眼中にない。

 

この名曲はあくまで心の中に生きる。もちろん私は名曲誕生の頃の隅田川を知らぬ。従って私は故郷の川、大阪の淀川や安治川などの記憶と重ねてイメージする。心の中に生きる、それが大事である。

 

「先生、ふなびと、って船のカッコした人間?」

「まさか知ってたのか!エヴァンゲリゲリに出てくる怪獣だ」

「先生、かいのしずく、ってアサリの貝のしずくのこと?」

「アサリじゃダメ!この場合はシジミ!シジミ汁のしずく!分かった?なに?なんでシジミ?しみじみだからシジミなんだよ。何、なんでしみじみ?シジミはな(きゅう)と泣くからさ。石垣りんという詩人がそう書いてる。だからシジミ汁、分かった?タヌキ汁じゃねえんだそ!なに?タヌキ汁知らねえのか?カチカチ山のタヌキ汁の話だ!」


と、まぁ、こんな会話がこれから出てきそうである。冗談であり、嘘八百、虚構であるのが世の中なのだ。また、曲想をぶち壊しそうである。

 

歌詞の良さ、それは美しい文語体にある。口語では話にならないが、文科省官僚もそれを理解出来ない。その文語体の骨格には漢文体がある。日本人の知性や感性はその2000年来の言語活動の中で培われてきた。この『花』もその結晶であろう。

 

『朧月夜』
          岡野貞一作曲
          高野辰之作詞

菜の花畑に 入日薄れ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよ吹く 空を見れば
夕月かかりて 匂い淡し

里わの火影も 森の色も
田中の小径を たどる人も
蛙の鳴くねも 鐘の音も
さながら霞める 朧月夜

 

こちらは和文の美しさを全面に出した詞。

 

朧月夜と言えば

  照りもせず曇りもはてぬ 春の夜の
        朧月夜にしくものぞなき
             大江千里

 

と、既に平安の前期に詠まれている。大江千里は白楽天漢詩からこの歌を詠んだが、その感性を高野辰之は詞に込めた。

その大江千里の歌は源氏物語の『花の宴』のヒロイン朧月夜に現れるのだが、

 

  深き夜のあはれを知るも 入る月の
     おぼろけならぬちぎりとぞ思ふ

 

紫式部光源氏にそう詠ませたのだった。

そう観るとなんだか『朧月夜』に艷やかさまで感じてしまうが、あくまで高野辰之の詞は叙景。しかし、叙景の中に艷やかさあり。


小学唱歌も中々素晴らしいと思いながら里山を散歩しました。日本人で良かったとシジミ思います(^^♪


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