pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

モリのいる場所

 

久しぶりに映画館に足を運んだ。

この作品は以前から気になっていた。
山崎努樹木希林が出演するからだが、この作品は2人の映画と言って良い。

樹木希林は「あん」で鬼気迫る演技を見せてくれた。ドリアン助川原作(未読)のハンセン病問題が核心にある作品である。永瀬正敏を中心にカメラが回る中に未知から現れた樹木希林演ずる吉井徳江さんが外縁を回りながら次第に輪の中心にはまって行く。佳子 を演ずる市原悦子も渾身の演技だった。

さて、山崎努を観るのは久しぶりだった。余り作品に恵まれていないかも知れないが好きな俳優である。その彼が画家熊谷守一の最晩年を演ずるというのだから、観ない訳にはいかぬ。

熊谷守一は後年の単純抽象的画風が世間受けし、なにか、俵万智やら現代小説の世間受け狙いの風潮に重なるかも知れないが、それは無知だからである。


冒頭、守一の古びた部屋の古びた道具(美しい)を丁寧に描写し、沢山の鳥籠、オウムまで飼っていたらしいが、それらを見せた後に守一の庭にレンズがゆっくり向いていく。91歳の守一。彼がその庭の茂みの中にはまり込んで正面を向いている。


私にはこのシーンが最も印象に残ったのだった。
なぜだろうと思った。

何かつげ義春の作品のひとコマにそっくりであり、また、お地蔵さんそのものであり円空仏である。それは正面のこちらを向いてはいるが、見る私を見ているのではない。

守一はまっすぐこちらを向いているが、観客の方を見ているのではない。

何を見ているのだ。
ただでさえ大きな目を見開いている。
茂みの暗闇の中に座り庭を眺めているという設定なのか。
いや、どうも何も考えずにただ眺めている風情である。「眺める」にはもの思いに耽りながら、ぼんやりと見ているという意味があるが、ものを思うという風情もない。

つまりは、茂みと守一は同一化しているのだ。
それは自然と溶け合うことだ。つまり彼は宇宙を見ている。


ほう、と感心せざるを得ない山崎努の演技だった。
心の「空」または「無心」を全身にまで及ぼす演技。
初めて観る種類の演技だった。

わずか2,3秒のシーンであったが、熊谷守一の本質を写したものと私は感じた。
私はこの2,3秒を観ただけで満たされた。


対象との同一化を以ってものを観る。
観ることの本質が熊谷守一の絵にはある。
庭で小石を見つけ「どこから飛んできた?」と話しかけてず〜と眺めている。


やはり冒頭、美術館で大会社のトップらしき老人が絵を見ながら「これは何歳の子どもが描いたのですか」と問いかけるシーンがあった。

確かに熊谷守一の晩年の絵は一見子どもの絵である。しかし、裸の大将の絵とは本質的に違う。どちらかといえば棟方志功の版画がそれに近い。

裸の大将のは天真爛漫であるが、熊谷守一のそれは静謐そのもの。高度に抽象化されたその世界が、熊谷守一の観る世界であり、結果、具象化されて「わかり易くなった」のである。

文化勲章も勲三等も辞退したシーン、貰うとこれまで以上に来る人が増えて困るからと言うと、妻はあっさり、そうですよね、といい電話を切る。
超俗、仙人とか呼ばれた理由の一つだが、長きを生き、様々な時代を観てきた熊谷守一には、それが一つの到達点だったのだろう。


彼の抽象画以前の絵には壮絶なものがあるのだから。

自らを「鬼だ」と感じさせる画業であり、業そのものを抱えて苦難の人生を歩んできた熊谷守一である。


晩年は自然観照に没入し、その挙げ句に自然と一体化した熊谷守一

30年間(実際は20年)家の敷地から一歩も出なかったというが、映画では、両手に杖を持ち、一度外に恐る恐る出るシーンがあった。 道の角を覗くと小学生の女の子と目が合って、彼は恐ろしくなって必死で家に戻った。

赤貧の中で死なせてしまった娘をその子に重ねてしまったのだと思う(映画ではそんな説明はない)。


そんな熊谷守一に寄り添う妻役の樹木希林はまた絶妙の味を観せてくれた。

 


次に観たいのはマルクスである。
マルクスなどとせせら笑う風潮に染まった感のある日本人が多いが、もちろん彼らは「思想」と無縁だからである。
私はマルクス主義者でも何でもないし、資本論など一巻で終わりの体たらく。一巻の終わり。しかし、マルクスの志を超える思想家が他にいるかな。ソ連だ中国だのを引き合いに出すのは問題外で、現代がマルクスエンゲルスをどう描くのかを観たいのだ。

 

写真、

ノラのクロが今日もやって来て餌を待っていたが、皿に入れたらチビが飛んできて食べ始めた。クロも腹が減っているはずだが、写真のようにチビを見つめると、悠然とどこかに消えて行った。このように、他の我が家のモン太郎やハチも同様な行動をする。モン太郎などは私に餌を出させて、食べずにそそくさとどこかに行く。チビのためである。

惻隠の情は、このように猫の世界、で、は、活きている。
恥じ入る次第である。


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謝罪!

 

文中、「美術館で大会社のトップらしき老人」と書きましたが、実は林与一演ずる昭和天皇でした。

林与一も久しぶりに観ました。