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夜が白んでくるころに目覚めた。
外の冷気が裸の体を撫でている。
蜩が鳴き始めた。
寝坊の私が朝に蜩が鳴き始めるのを聴くのは久しぶりだ。
あの、かなかなかなという響きにはどこかしら哀調をともなうのだろう、近くは『蜩ノ記 』という小説があり、古人は蜩を秋の季語にした。また、万葉集にも詠われるなど、日本人の感性を作ってきた。
ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし
咲きたる野辺を行きつつみべし 万葉集
蜩の鳴くようなわびしい気持ちの時は、そうだね、野辺を歩いておみなえしの咲いているのを見つけてごらんなさい、とこんな歌意で済ますならつまらぬ。
しかし、花を女性と観れば歌意は一変する^^。
もちろん、「見ゆ」は「逢う」に同じ。「逢う」は「抱く」に同じ。
お洒落な歌である。また万葉の人たちはおおらかであったと感心していると、じゃあ、いま安曇野の宿にわびしく過ごしている私はどうなのか。
一体に蜩は夕景に詠われる歌が多いのも頷けるというものだ。
近くの蜩の声は大きく、遠くになるにつれ小さく聞こえるのは当然だが、半睡のおぼろげな頭で聞いていると、近くの声の次に遠くの声と、交互に鳴き交わしている。いや、明け方の蜩は山の冷気の中で呼び交わしているんだな。そうか、恋の歌だものな。雑念だらけの人間は遠く及ばぬ。
やや長くなるが、以下、私が「蝉」の和歌について以前に書いたものだ。「歩く」からの抜粋である。
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十月に入った日曜、滅多にない秋晴れに誘われて十日ぶりに歩いた。今季の長雨と夏の暑さのせいにするのだが、歩くことで体力を維持していた私の体は歩く意欲がしばらく失われて、かなり衰えているはずだった。
それが、秋晴れの澄んだ青空を見た途端に身体は疼きだしたのだ。
先月に晴れたときは、家から高麗神社まで往復十四キロを歩いた。今度は多峯主山から天覧山を抜けて、飯能駅に出るコースである。高麗神社までの往復では、さすがに疲労が濃く出たので、この日は天覧山コースにしたが、低山とはいえ二山越えて行くのだ。湿度はやや高めであるが、山の緑の木立を吹き抜ける風は何とも心地よい。
急な坂を上ることに少し不安もあったが、意外に脚力は落ちてない。長雨のせいで道を心配したが、この三日ほど曇天がつづいたおかげでぬかるみもない。多峯主山頂上で飯能から来たハイカーが老若数組、強い日差しを避け、木陰で休憩談笑していた。空気が澄んでいれば富士山から東京まで見渡せるのであるが、あいにく富士山は霞んで見えなかった。
お茶を飲み握り飯を食べて、次の天覧山に向かう。途中の道はよく整備され快適だ。道の傍らに濃い紺色の実がつややかに光っていた。クサギの実がまだ残ってくれていたのだ。ラビスラズリを見つけた気分である。夫婦や子連れの家族らとすれ違う。声をかけると喜んでくれる。
「ほら、頑張れ。着いたらおやつがまってるぞ」
向こうから、上り径を元気に駆けてきた、三歳くらいの女の子に声をかけると、そのあとからお母さんが、まぶしい笑顔で挨拶してくれたりする。
下り径を終えて長い坂を上って行くと、ツツジがまばらに咲いていた。おやおや、気候に騙されたのだ。楽しませてくれる、こんな騙され方なら良い。
更には蝉の声がわずかに聞こえてきた。いくら何でも十月。帰宅して調べたら十一月まで鳴いている蝉もいるそうだ。
昼は鳴き夜は燃えてぞ長らふる 蛍も蝉もわが身なりけり
紀貫之
蝉が単独で詠われる歌は蛍にくらべ少ない。この貫之の歌は蛍と蝉をセットにして、恋に焦がれる歌として、親しまれている。
しかし、蝉も蛍もその命のありったけを燃やし尽くして最期を迎えているのだ。彼らの「恋」は同じ「恋」でも、それは死を意味する、まことに壮絶な「恋」なのだ。貫之がそんな事を知らぬはずはない。「ながらふ」つまり貫之は生き続けながら、儚い命である蛍も蝉もわが生と同じと観た。儚い命として己の命を観た。したがって、私は、この歌は死をも厭わぬ貫之がその死生観を、己が壮絶な生を、切実、激情の恋の歌として重ねて詠んだのだ、と理解している。
現代の私たちは、命の長さを「平均寿命」という怪しげな数値で推し量るのがせいぜいのところだ。女性が世界首位の八六歳、男性が六位の八〇歳だそうだが、それらは自分にとって何の意味がある数値なのかと思う。長生きは人類のテーマであることは分かるが、数値として自分は何歳まで生きれば満足なのか。
私は父の死を見て、父の百二十歳まで生きたいという願いを否定する気はない。できれば叶えてほしかった。死は恐怖そのものだったろうし、自分も同じである。死への懼れは子どものころの墓参のイメージで心の奥に焼き付いてしまった。その時、湿った土の匂いと苔むす岩に風化した墓石があった。人がその下に埋められていると諒解したとたんに死への恐怖が生まれたのだった。その懼れは如何ともしがたい。恐怖は私のその後の価値観や世界観の根底に、消えざる熾火のごとく火照っていた。
だが、両親の死を見て、いや、それ以前から、友人や同僚の死を見ながら生きてきて、その熾火の勢いは次第に消えていったのだろう。みなが、蝉や蛍と同じように、その命のありったけを燃やし尽くして最期を迎えたのだ。そう、思った。
退職後、健康診断を受けた。そして医師に、癌かもしれない、という診断を告げられた時、私は意外にも平静だった。病院を出て青空を見上げた時に、心のなかのどこかで「せいせいした」という呟きが聞こえてきたのを今もはっきり覚えている。まことに意外だった。その後の検査で、実は何でもないというオチがついたのだが。
あの紀貫之の時代、死は行住坐臥、人々の目の前にあった。死は憧れの彼岸に渡る方法でもあった。風狂の僧侶たちは西方浄土に向かって海に飛び込み、あるいは木乃伊となった。平安末期の歌人西行は釈迦入涅槃の日に死んだ。
前に「儚さ」と書いた。
平安の人々がとらえた「儚さ」を後世の人は女性的感性ととらえたが、どうだろうか。それは全く逆で、死をまっすぐ見据えた人たちが自覚しえた「思想」ではなかったろうか。鴨長明の記す、「あはれ」という言葉の持つ精神的な厳しさと同じと考えている。そう見ると、貫之の歌に、なよなよした姿はかけらもない。
「わが身なりけり」の「けり」とは、紀貫之の、自分の生の認識に基づいた、覚悟としての堂々たる詠嘆である、と私は読む。
私は死を恐れる一方、素直に死を受け入れたい願いが、しだいに強まってきたように思う。ゆっくり歩きながら、私は過去を振り返っていた。いや、歩きながら社会や自然と、また、自分そのものに向きあっていたのだった。
この十月の蝉の鳴き声が身にしみて聞こえてくる。秋晴れの輝く森の中で、盛りの時期を外した孤独な蝉の鳴き声はうら悲しくも聞こえた。そう、私はこうやって歩いてきて、いま、お前の鳴き声を聞くことができた、と心の中でつぶやいた。季節はもう冬に向かっている。冬は新しい命を静かに見守る季節である。
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出来る限り安上がりの旅を探して見つけたのが大阪西成と、ここ安曇野の山の宿だったが、安曇野もこれで何度目かとなった。近いという利点もある。バス直行便もある。蕎麦の美味い店もあればサイクリングで道祖神巡りも楽しい。
しかし、私にとっての一番の安曇野は、やはり碌山美術館であった。荻原守衛こと碌山がいかに長野県人に愛されたかを象徴するその建物や敷地はこじんまりとしていながらも美しい。隣接する中学校生徒が清掃奉仕のために今も来館する。
受付の中で本の購入をしていたら窓越しにそんな中学生が幾人か通り過ぎて行く。そのうちの1人の女の子と目が合ったら、にっこりと微笑んで会釈をしてくれた。
ル・コルビジェ西洋美術館よりはるかに美しい。加えて見学者が少ないので落ち着いて過ごせるのである。
「大正理想主義の煌めきー戸張孤雁とその仲間たち」
「戸張孤雁集」
「愛と美に生きる」
「明治女学校と萩原守衛」
「碌山のことなど」
「萩原守衛」
の6冊を求めた。
本を買うのも実は久しぶりであった。貧乏人はおいそれと買えなくなっていたのだ。上の6冊のうち下4冊は半額となっていたのでつい手がでた(半額、に弱いなあ)。前から欲しかった本たちである。おいおいそれぞれの本について自分なりの感想をまとめたい。
そういえば、趣味人のお気に入りさんの中で「心の中の浮気」はどうだ、許せるかというような話がちょっと起こったのだが、この碌山と新宿中村屋創業の相馬黒光の関係などは、その示唆に富むだろうと思う。
なぜ、安曇野か。それはこの風土であり、碌山美術館があるからである。何度来ても良い。
3泊の初日は着いただけで終わった。運転手に訊いたら
「異常な暑さです」
という。34度だった。埼玉は36度。
「そうだよね、ちょっと調べたら息子が駐在しているベトナムのホーチミン市は31度だってさ。どう考えてもおかしいだろ」
そんな会話をした。
翌日はその碌山美術館見学で終わった。本を宿で読んだ。
その翌日、つまり19日は念願だった白馬へ脚を伸ばした。
なにせ交通の便が悪い。白馬駅に11時過ぎに着いて、タクシーでゴンドラ駅まで。その近くのレストランで昼食。元気のよい婆さんが一人でやっている。店の中に喫煙場所が小さく仕切られてあったので、注文した後にそこで一本火をつけたら、気づいた婆さんが灰皿をテーブルに置いてくれた。
「嬉しいね、今どき」
というと、顔をくしゃくしゃにして喜んだ婆さんであった。
「ほら、店の前で灰皿探してるひといるだろ?わたしゃ、すぐ呼んで吸わせてあげんのよ。冬なんか可哀想だろ?」
小池知事よりずっと見識の高いばあ様であった。
ゴンゴラからリフトを乗り継いで黒菱平まで登る。既に標高1680mである。小さな池とニッコウキスゲの群生地だ。そこから歩て2つ目のリフトに乗る。第一ケルンがあり八方池山荘がある。そこから目指す八方池まで往復約3.3キロを歩いた。
途中、息切れがひどくなった。汗を拭きながら歩いたが気温は20度と素晴らしい。高山の花々が至る所に出迎えてくれる。
第二ケルン、第三ケルンで少し立ち止まりながら急いだ。なにせ安曇野まで帰らなければならない。八方ケルンではもう引き返そうかと思ったが「まだ行ける、大丈夫」という天の声を聴いた。ついにきたか・・・頭に・と思ったが、私はスロースターターだったのを思い出した。ようやく足が慣れてきたのだった。
途中、下山する中学校生とすれ違った。
「やあ、大日方君!元気か?」
と、声をかけた。メガネ小僧の大日方君は仰天した風で私を凝視した。そりゃ驚く。こんな所で見ず知らずのジジイに咄嗟に声をかけられたのだ。私は彼の名札を見て声をかけたのだ。アハハ。
八方ケルンから八方池に着く右の崖の向こうから白馬三山の巨大な山塊が立ち現れてきた。白馬三山雪渓が白く輝いていた。昨夜の寝不足も、ここまでの息切れも忘れ去っていた。