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我忘る旅の蜩山の朝
安曇野旅行での宿の朝ぼらけの中で目を覚ました。蜩が交互に鳴き交わしていた。静けさの際立つ蜩の声が開け放した窓から聞こえてくる。至福。
蓮の花開きて空を抱きけり
蓮の花はその姿、存在感が大きすぎて詠めるものではないが、詠みたい。
夏野菜畑に俳句立てる人
渓流に下る入り口にその畑はある。無人販売の小さな棚もかわいい造作である。おまけにここを通る人は滅多にいない。その畑に自作俳句の札を立てている。
夕映えに京鹿子の浮かびたり
京鹿子の近種下野草(シモツケソウ)は白馬の高山にも咲いていた。なに、違いは葉の様子がちょっと違うだけ。なんでも細分化するのは学問に任せて、私はふと思った。この可憐極まる花がこの白馬の高山に咲き誇る。園芸種として我が家に咲いた京鹿子は野鳥のプレゼントだが見分けはつかない。もしかしたら白馬から長い時間と野鳥たちのリレーで届いたのかもしれない。楽しい幻想だった。
実梅もぐ風もさみどり匂い立つ
「さ」の意味から説明が必要だった。さらに「さみどり」を「風」に使う説明もした。「青嵐」「蒼風」などを例示しても風に「みどり」の例はない。青信号の青は緑色、古代から「青」が緑色の範囲も含めて使われてきた。私はここではその緑色を風にあてがいたかっただけ。感覚の世界である。
今回もこの趣味人で畏友から贈られる俳句への返句として出した愚作から選んで句会に出した。
俳句とは何か、そんな理屈は私にはわからない。私にとって、なら答えられる。
私にとって俳句とは短歌や詩と同じ。詩の一行を575にしただけで、テキトーである。ただ、坪内 稔典のようなエロ俳句は勘弁である。こいつ、マスコミに乗っかって京都教育大にいるのだから恐ろしい世の中である。
句会参加者で宗匠だけが句歴50年であり私は退職後まだ数年。他の方々はこの一年くらい。
宗匠句
片影の絶えて行く手のまだ遠く
扇風機諍いの間を行きかへり
80歳近い宗匠熟練のさすがの俳句。
二句目の「間」、これを「ま」とよむ他ないのだが、そう読むと時間を表すことになる。「あいだ」と読めば空間。
「あいだ」という意味を感じてくださいとは苦しいが景としては「あいだ」と読むほかない。「ずるいですよね」と宗匠は微笑んだ。
「片影」の句、私はキリコの絵を思い出した。少女が無人の赤い街の道を輪を転がせながら走るゑ。また耿湋の漢詩「秋日」の静寂を思い出した。
動画、ではうるさい曲^^。
ムカムカするときに良い。過激なフレーズがボンボン飛び出すが、ロックとエロは違うのである。