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昨夜のことになるが、映画『夢千代日記』をYouTubeで見た。読書も創作も手につかない無聊を慰めるにはよい作品をみるに限る。パソコンで無料で言うことなし。
昔、NHKがドラマ化した有名な作品で、あの頃は私もNHKに気前よく視聴料を払っていたが、こうしてみると、まだあの頃のNHKには優れた作品が多かったような気がする。
気がするというのは、もう何年も前に契約を打ち切ってTV自体も観ていないから、その間優れたのが放映されていたかも知れない、というだけ。
昨夜はNHK『夕凪の街 桜の国 2018』が放映されていたというが、それは以前映画館で観た。
また、広島を訪れたときに、京橋川のたもとの遊歩道沿いに被爆した垂れ柳があるが、古い卒塔婆が新しい生花を供えられていたことを思い出す。長崎にもあった。「記念館」ではない日常の空間に今も続く祈りがあったのだ。
どう描くか。
描きようのない現世地獄に挑戦した人たちはいる。
原民喜はボロボロの体で『夏の花』を書いて自殺した。
『夢千代日記』は本当はTVドラマで見たいのだが、なにせ強欲の鬼と化したNHKでは無理なので映画版を見たのだ。
映画のほうはやはりドラマでの深い情緒を描くのは無理で、ストーリーを追いかけるのが精いっぱいなのは仕方ない。
今回観て一つ気づいたことがある。
吉永小百合の稀有な美しさである。それは映画でも遺憾なく発揮されていたのだが、昔観たときには、単に美しいとしか思わなかった。吉永小百合のための映画だくらいの認識だった。
そうではなかった。
吉永小百合の醸し出す美しさ・・・それは社会の底辺で精いっぱい健気に生き、苦しみ悶えながら必死で耐えている人たちの美しさを象徴するものであった。体内被曝の宿命に耐え温泉芸者という過酷さに耐え続ける美しさ・・・耐え続け己を失わず生き抜くことにしか美しさはない。うがった観方と言われるだろうが、去年亡くなった早坂暁は、そう描いたに違いないと率直にそう理解した。
その意味でこの『夢千代日記』はTVドラマには遠く及ばぬものの、やはり広島を美しく描いたのである。
そう観れば吉永小百合というキャストに代わる女優はいないのだ。凄惨な美からあどけない表情(このあどけなさ・・・私はそれが一番好きである^^。お気づきの方はいらっしゃるだろうか)まで表現しきった彼女の、やはり渾身の一作となった。