pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

泥中の蓮

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泥中の蓮とは「泥中の蓮とは、汚れた環境の中にいても、それに染まらず清く正しく生きるさまのたとえ。」と辞典に述べられて、その通り流布されているのだが、最近気づいたのは「泥」は不浄ではないということである。

我が家の径1メートルほどの蓮を活けた中国製陶器の鉢には泥が敷かれているが、この泥は田の土である。

土の上に20センチ弱の水が被っているが、この水は腐らない。澄み切ったままで時折猫たちの水飲み場となっている。

戦国時代の『呂氏春秋』に「流水腐らず」との言葉があるが、流水ならずとも腐らないのである。

口さがない人は、それではその田の土は農薬がたっぷり浸みているのだというが、残念、無農薬の田であり、また、水には昆虫が棲み金魚が泳ぐ。


ならば「泥中の蓮」は「泥」=「穢れ」という認識を改めねばなるまい。逆にそんな泥は浄化作用を持っているのである。

比喩として穢れた社会を泥と喩えたとしても穢れた社会の毒を吸収しながら高潔な人間が生まれることはない。そのような人物は必ず高潔な学びをなして育つのだろう。そのような学びを教養と呼ぶ。


而して政治家は穢れという毒をどれだけ狡猾に自身の養分として蓄積したか、つまり庶民を騙す能力に秀でているかが問われているのだが、最近の政治家はどううまく騙すかという知恵さえ持てぬらしい。露骨な嘘も強弁や無視でやり過ごす。まあ独裁者気取りなのだな。赤い尻を丸出し、連中の尻と腹の中は真っ黒臭すぎである。

尤も、『呂氏春秋』を世に出した秦の呂不韋は自身が政治家として大成した策謀家であるが「流水腐らず」とはならず末路は腐ったあげくに自殺した。

泥中の蓮は清らかな、しかし滋養たっぷりの土と水を糧として比類なき花を咲かせ香りを漂わせるのである。

 

美しい花は美しい土にしか咲かない。
汚物には決して咲かないのだ。

人また然り。


付け加えれば田とは百年単位で営々と醸成された土であり「美田」と尊称するのだが、放棄された姿は現代を象徴する姿で無残である。また、人同じ。

貝原益軒の『養生訓』を読んでいたらあちこち気が散ってしまい、相変わらずとりとめのない話となった。


庭で猫が呼んでいた。家の前の公園で遊びたいのだ。ひと時公園のベンチに座り光を浴びた木々の葉擦れの音を楽しんだ。猫たちも落ち葉を踏むのが楽しいらしい。飽きるとレスリングを始めた。

 



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