pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

『やすらへ。花や。』

 


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萩岡良博著『やすらへ。花や。』を、私としては久しぶりに購入した。昔は関心があれば書籍は片端から求めていたが、年金暮らしとはこういうものだと実感する日々である。


さて、この書物の帯に「どこかで、だれか、呼ぶような。」
という言葉が記されている。

「やすらへ。花や。」はP14に京都の今宮神社はじめ数社で行われている鎮花祭(はなしずめのまつり)という奇祭」における囃子詞にあるという。鎮花祭は各地にあり、「花」は遠くなり「疫病退散」が前面に出てきたのか、主に製薬会社の守護神と化しているようだが、本来は「散る花のとともに飛散すると信じられていた疫神を鎮めるために行われた」ものであって、「その際の囃子詞に「やすらへ。花や。」と歌われるらしい。それは桜の花を稲の花に見立てて、早ばやと散ることを凶作の兆しとするため、「散り急ぐな花よ」という意味を込めている」という説明があり、筆者は折口信夫や鳥越晧之の説を出す。私にひっかかるのは、本来散り急ぐ花の代表である桜の花であるのに、ということだけだ。

「やすらへ」

この言葉に立ち止まってしまった。

「やすらふ」には、しばらくとどまる。滞在する。休む、など幾つかの意味が出ているが、どうもしっくりこない。この囃子詞がいつ生まれたのかも出てこない。しかし、折口信夫よれば田歌なので、大宝律令の前時代から歌われていたと思える。古民謡であるからその歌は純朴な祈りを湛えて澄んだ泉のごとくである。
おそらく、始めから田歌として詠まれたのではあるまい。
万葉に至るまでに長い民謡の歴史があったはずだ。そう観れば、行事としての囃子詞の意味としてだけではなく、純朴な花の賛歌の歌とも感じられるのだ。


やすらへ。花や。やすらへ。花や。

聴く人々の心に春のたおやかな安らぎが響いたことだろう。


萩岡良博氏の著作はこれ一冊しか読んでないが、その巻頭を飾るこの言葉のご紹介に感謝するのである。


読みながら数日言葉に遊んでいた。

また折口信夫の文章も久しぶりに楽しめたのは氏の著作のお陰である。

 

今日の拙歌

  まさきくや花にやすらふ日のもとに
          春待つ梅の芽の動きつつ


師走の慌ただしいなか今年を振り返り、また皆様のつつがなき新年が迎えられますよう祈念申し上げます。

 

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