pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

カミュ『ペスト』メモ1

 

 


以下カミュ『ペスト』昭和49年発行新潮文庫より。自分の読書メモです。何回かに分けて続けます。
コメントは勿論ご随意に宜しくお願い致します。

 

高校以来久しぶりにカミュを読んだ。
高校生と言っても幼い私にはぼんやりとしか掴めない作家だったが、今、読み返すとしっかり把握できる。
だから私は今も生きていることが重要なのだ。
分からないことが殆どでも、こうやってみると、歳をとって分かってくるものもあり、しかも、重大な内容であったことに気づくことが嬉しい。


カミユはいわゆる不条理をテーマとした実存主義作家とレッテルが貼られているが、どうだろうか。

もちろん、不条理を描いた『異邦人』は鮮烈であったが、その不条理性を社会に拡大し、個人と社会との、いわば不条理との相克を人間の在り方の問題としてのモラルを徹底的に描き切った『ペスト』である。

まずもって表現が素晴らしい。
情景も風景も自在に大胆に豊富な言葉が飛び跳ねて奥行きを深くし、まるでギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス -を見ているようでもある。それは生き生きと「世界」に命を吹き込む描写である。

「目の前に、さながらビロードのような厚みのある、獣のようにしなやかに滑らか姿を現した」

この一文は主人公のリウーとタル―が泳ぐ前の海の波の描写であるが直喩が見事である。

このような文章が全編に溢れかえって読むものを否応なくペストの中に放り込んでいく。

ペストとは暗喩である。
従って作品全体が暗喩となって、読むものはその描写のリアリティーと暗喩とを同時に味わうことで、表現の二重性のなかに世界を読むことになる。

 

P15~
「その点はどうだか知らないが、これは自分の暮らしている世界にうんざりしながら、しかしなお人間同士に愛着をもち、そして自分に関する限り不正と譲歩を拒む決意をした人間の言葉である」   


記者ランベールの問いかけに対するリウーの返答の言葉であるが、早々と作者は主題に関わる言葉を出してくる。リウーはペストと闘う医師としてその後絶望的な疲労を続けていく。リウーは「自分に関する限り」という極めて謙虚な、しかし、重要な意味をそこに限定するのである。
すなわち実存である。ただし、ここではまだそれは「自分に関する限り」という個人内部の世界にとどまる。

 



続く