pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

カミュ『ペスト』メモ3


人間の脳とは不完全そのものであり、それは悲劇の元でもある。

自分の判断は常に錯誤を含み、だからこそ社会的には合議制が基本となるが、錯誤の集合としての合議制は悲劇しか産まない。更に錯誤ではなく欲望の集合体となれば目も当てられない。

従って、組織はその2つを内包するが故に常に腐敗や独善や暴走の危険性を有し、小は井戸端から大は国家に至るまで同様である。

そこに於いての言葉の限界性は甚だ残念な事となる。今の日本の国会はその象徴である。

 

P154
徒労でしかないと見えるペストとの闘いに精魂を傾け疲労困憊しているリウーにタルーは問いかける。

「いったい何があなたをそうさせるんです。こんなことに頭を突っ込むなんて。」

「知りませんね。僕の道徳ですかね。あるいは」

「どんな道徳です、つまり?」

「理解することです」


リウーの明快な答えはタルーを満たしていく。

しかし、道徳とはという問いかけに「理解することです」と答えさせるカミュ


P155
「筆者はしかしながら、むしろ美しい行為に過大な重要さを認めることは、結局、力強い讃辞を悪に捧げることになると信じたいのである。なぜなら、そうなると、美しい行為がそれほどの価値をもつのは、それがまれであり、そして悪意と冷淡さこそが人間の行為においてはるかに頻繁な原動力であるためにほかならぬと推定することも許される。かかることは筆者の与しえない思想である。世間に存在する悪はほとんど無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありえる。人間は邪悪であるよりむしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。しかし、彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち美徳あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いのない悪徳とは、みずからすべてを知っていると信じ、そこでみずから人を殺す権利を認めるような無知の悪徳にほかならぬのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうる限りの明識なくしては真の善良さも美しい愛も存在しない」


「筆者」とは作者でありリウーでありタルーである。
私はこの「筆者」の独白を全面的に肯定する。前のページでのリウーの答え「理解することです」という意味を「筆者」が答えたのである。
さてさて、理解するということ。その十全性を求めるということ。

道徳を理解と解釈することは儒教道徳に馴染んだ私達には一見奇異に映るが、それはすなわち頭ごなしに「道徳」を染み込ませられているからである。

家庭から公権力としての学校まで、私自身「道徳」を理知的に教えられたことはない。また至高の道徳である「愛」でさえ。盲目的に信じてきたに過ぎないのだ。
その状況の中で「みずから人を殺す権利を認めるような無知の悪徳にほかならぬ」と断言するカミュ。ここにはヒトラーとその全体主義国家に忠実に生きる人たちを連想させながら、同時に人間の普遍的問題を指摘しているのだ。

タルーの人生において最大の問題は死刑という殺人行為であった。そのことはまた触れるが、ここでは、現在、死刑廃止条約に反対し、死刑を実行している「野蛮国」として名誉ある地位を占めるのが「大国」としては日本、中国、アメリカなどで、ロシアや韓国は死刑を中止している。