pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

カミュ『ペスト』メモ4

P156
「しかし、教師が二たす二は四になることを教えたからといって、別にお祝いをいわれはしない。お祝いをいわれることがあれば、それはおそらくそういうりっぱな職業を選んだということであろう。だからタル―やその他の人々が、どちらかといえばその逆よりも、二たす二は四になることを証明するほうを選んだのは、ほめるべきことであったといっておくとして、しかしまたこの善き意思は、彼らとともに教師および教師と同じ心をもつすべての人々に共通のものといっておきたいのであって、こういう人々は、人類の名誉にかけても、普通考えられている以上に多いのであり、少なくともそれが筆者の確信なのである」

「しかし、歴史においては、二たす二は四になることをあえていうものが死をもって罰せられるというときが、必ず来るものである。教師もそれはよく知っている。そして問題は、いかなる褒賞あるいは懲罰がその推論を待ち受けているかを知ることではない。問題は、二たす二がはたして四になるか否かを知ることである。市民のなかでそのとき生命の危険を冒した人々の場合も、彼らの決すべきことは、自分たちがはたしてペストのなかにいるか否か、そしてそれに対して戦うべきか否かということであった」

タル―が市民の保健隊結成に加わりリードしていく状況で、前ページ同様にその連続で「筆者」が発したことばである。

「教師」の例がでてくるが・・・日本に於いてもそのような教師がいることを信じたい。黒を白と教える輩は論外として。また虐めに加担し同僚を自殺に追い込んで平気なのは外道として、大半は善良な「教師」である。尤も不幸か幸運か私の勤めた職場の大半はその足し算さえおぼつかないありさまだったが・・・

「問題は、二たす二がはたして四になるか否かを知ることである」

多分昔は読み過ごしていたこの一文を、この歳でようやくわかった。世間はあるいは政治は二たす二はゼロでも9でもなんでもあり、またそもそもそんな足し算さえ殆どないということだった。


P186
「ペストと戦う唯一の方法は誠実さということ」 リウー

「誠実さというのは?」    ランベール

「僕の場合には、つまり自分の職責を果たすこと」リウー


ランベールという、外からオラン市にやってきてペストのために市外へ脱出できなくなった記者の問いかけに答えたリウーである。

道徳とはという問いかけに「理解することです」と答えたリウーだが、ここでは「誠実さ」という徳目への答えを出した。

絶望的なペストの蔓延から一人でも多くの人間を救いたいというリウーは、もちろんナチスへの抵抗を貫いた。

また、以下の、広島の人々を殺戮しつくした原爆投下という世界史上類を見ない残虐を世界中のマスコミが鬼畜のごとき提灯記事を出すなかでカミュ主筆のコンバ紙が以下の声明を発表している。いささか長いが果てしない苦悩を思えばどうってことない。さすが・・・カミュゲバラと同質の知性を感じる。

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コンバ 社説 1945年8月8日

世界がこんなものだということ、つまり、ほんのちっぽけなものだということを、昨日から誰もが知っている。ラジオ、新聞、通信社が原爆の件に関して放った大合唱のおかげで。熱にうかされたような幾多の論評の中で私たちは、いかなる普通の中都市もサッカーボールの大きさほどの爆弾によって完全に破壊されうるということを、教えられる。アメリカやイギリス、フランスの新聞が、原爆について、その未来、過去、開発者、開発費用、平和的使命、戦術効果、政治的影響、そしてその独立的な性格についてさえも、エレガントな論文を掲載し、流布していく。われわれはといえば次の一言で要約しよう。機械文明は野蛮の最後の段階に到達したと。遅かれ早かれ集団自殺か科学的成果の賢明な利用かを選ばなければならなくなるだろう。

しかし当面は、次のように考えることが許される。すなわち、人間がこれまで何世紀も見せてきた破壊への情熱の最たるものをこのように称揚することは、ある種、不謹慎であると。あらゆる暴力の炸裂に赴いた世界、いかなる制御もきかなくなり、正義や人々のささやかな幸福に 無関心となった世界の中で、科学が組織的殺人に寄与していることについて、おそらく誰も、癒しがたい理想主義を抱く者でもないかぎり、驚こうなどとは思いもしないだろう。

発見された事柄は、記録され、事実に応じて論評され、公表されなければならない。それは人類が自らの運命について適切な考えを持つために必要だ。しかし、この明るみになった恐ろしい事実を、興味本位の、あるいは面白おかしい文章で彩ること、それが耐えられないことだ。

拷問にかけられた世界の中で私たちはすでに容易に息ができなくなっている。そこに、新たな--そして間違いなく決定的な--不安をちょうだいした。おそらくこれは人間に与えられた最後のチャンスだ。結局それも、各紙が特別号を発行する口実にもなろう。しかし、それはむしろ、いくばくかの考察と長い沈黙のための主題とならねばならぬはずだ。

さらには、新聞が書きたてる近未来小説に用心しなければならない理由もある。ロイター通信社の外信部は、この作戦は現在の諸条約を時代遅れのものとし、ポツダム宣言の決定そのものさえも無効にすると書いている。それを読み、しかもそこでは、ロシアがケーニヒスベルクに、トルコがダーダネルス海峡に進駐していることなどお構いなしだということに気づくとき、こうしたコーラスの中に、科学的な客観性とはかなり異質のさまざまな意図があることを思わずにはいられない。

もし日本が広島の破壊のあと、威嚇に屈して、降伏するのであれば、それは喜ばしいことではある。しかし、われわれは、これほど深刻なニュースから、真の国際連盟組識--大国が中小国に優越する権利を持たず、人間の頭脳の力によって決定的な災厄となった戦争があれこれの特定の国の野心やドクトリンで引き起こされないようなそういう連盟--の建設をより一層熱心に訴えるという決断以外の結論を引き出すことを拒否する。

人類の前にページを開きつつあるこの恐怖すべき未来の図を前に、われわれは平和こそが行うに値する闘いであることに、よりはっきりと気づかされる。それはもはや祈りではない。それは命令である。各国の国民を政権へと押し上げる命令であり、地獄と理性のいずれかを選ぶのかを迫る命令である。

http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20050809
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これが、リウーの言う「職責」を果たす言論である。「誠実」の姿である。

 



日本政府は未だに原水爆支持で経団連会長は原発利権に夢中で世界中に恥をさらしている。
また、戦後、世界中に局地戦争をばら撒き途轍もない犠牲者を出してきたアメリ軍需産業、政府への追従、イスラエルの追従も全く平気となった。