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昨日の句会では、以下のニ句を出した。
裾払ふ手のほの白し梅雨の夕
「竹久夢二のような句ですね」と言われた。正直、それは想像してなかったが、彼女はそう感じてくれたのだ。彼女は句歴は宗匠と同じくらいで、きっちり読み解いてくれる。
「【梅雨の夕】でなければならないのかな」と宗匠が指摘する。
そう、季語が梅雨で、無理やり入れたのかと思われたのだが、すかさず件の彼女が
「梅雨の静かな雨でないとね」と支えてくれる。もう一人、今も放送大学などで勉強をしている「文学少女」と評されている女性が
「そうよね、ざあざあ雨とか氷雨とかじゃ合わないよね」と相槌を打つ。
「【夕】はどうかな。朝とか昼じゃなくて」と宗匠が指摘する。
「家の玄関を開けたところの姿じゃないかしら。裾を払うってのは。その着物姿の女性は若いわよね。私の手なんかほら」と長年の苦労が滲みた手をテーブルの上に差し出した。一同の明るい笑い声が狭い茶店に響いた。皆さん同世代。宗匠も、男性としては私以外のもう一人の元教授も釣られて笑った。皆さん既に独り身なのである。それぞれの色んな思いが何気ないこんな笑い声にも込められている。宗匠は亡くなられた奥さんを詠む句が多いのである。
宗匠は皆さんの意見に頷きながら納得してくれた。
「巴琴さんの句だって分かる」
「これ、想像の句?」
「ロマンチックなのよね」
私としては敢えてこの句を出したのである。毛色の変わった句或いは情感に訴える句。そんなものが難しい雰囲気を緩める。楽しく、それが私の前提であるから。
しかしロマンチック…ものは言いようで、「このアホ」とか「間抜け」とか、どうにでも意味を使う事ができるが、意味を使う事ができるが、ロマンチックの語義は説明しなかった。「ロマンチック=自己変革」なのであるが…浪曼主義とは実はそうなのだ。
本気で恋愛すれば自ずと自己変革が成される。私など、それで幾度自己変革を成したか…というホラは吹かない。ホラは信じられ真は信じられ無いというのが私の現実認識である。「私はね、渾名はカモメの女難サンですよ」なんて言おうものなら、団地中に「このアホが!」と喧伝される事間違い無い。そうでなくとも口は災いという格言を全く無視してきたのだから。危ないなんてもんじゃない。
やんぬるか守宮も窓に貼りつく梅雨
「ヤモリ、は季語になるかな」
早速、宗匠が指摘。
「あ、夏の季語!」と文学少女が調べて下さる。
「二重季語は…実は沢山出てるからな。さほど気にしなくて良いです。」と宗匠が助けて下さる。
「目に青葉山ホトトギス初鰹」とか他の例句など教えて下さる。
「ただ、二重季語の場合はどちらが主となるのかが問題よ」と宗匠なみの句歴の女性が指摘。
「はい、守宮です」
句会はそれぞれの句を一句ずつ、全員で批評し合う。文学少女は「びっくりした!」とのたまう。ヒヒヒ。私は彼女を驚かす事が密かな楽しみなのである。
「初句のやんぬるか…意味は?」と彼女は問う。
これは私も覚悟していたので、答えた。
「本来は、やんぬるかな、という漢語表現なのです。普通は。しかし、やんぬる、で止めて詠嘆の【か】を添えて見ました。意味は【どうしようもないなぁ…】というところ。梅雨のやるせなさを守宮と共感し合った訳です」
「やんぬるかな、でも良いのですが、已矣哉、となるとやたら強い漢語表現になるのと、字余りとなるので勝手表現です」
で、ご納得頂きました。全く変な句で「びっくりした!」と言ってくれた文学少女の方に感謝でした。
迎え梅雨供華買しことのみの用
これは宗匠なみ句歴の方の句。選ばせて頂きました。結句に異論も出ましたが、私にはそれが却って新鮮でしたので。
以上、こんな感じで2時間、あっと言う間に過ぎます。終わりは珈琲です。
玄関脇のタワーに陣取るチビ猫
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