pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

手のつけられない子供

梅雨らしい雨続きの毎日だが、梅雨らしくはない雷鳴が昨日など、近くに、ひどく炸裂していたり、そもそも雲の形が積乱雲のような峰のようだったりと自分の経験的な梅雨とは異なった様子である。地球規模の気候変動の中で取るに足りないものだが、案外激変の予兆は身近にあるものだ。
今春の桜も、そういえば今までになく長く愉しんだのだが…

後戻りの出来ない変動。

今や人類のゴミ箱と化した海。プラスチック粒子に大騒ぎしている。循環し人間の体内にも入って来たとか。

馬鹿げている。核実験を昔は盛大にやっていた。放射能の雨。
「濡れないように!」なんて学校でも家でも脅かされたものだ。
「禿げるわよ!」

核廃棄物を海に大量に放り込んでいたり年に何百万噸とかの化学物質を地上や大気中にばら撒いたりと盛大に自分の首を締め付けて…対策は後追いでまぁ自業自得。因果応報。

なんて、つらつら雨の日の妄想ーに傾きかけた自分だったが、まずい。気を取り直して、テーブルの上に置いてある堀辰雄全集にある小品を読んだ。


『手のつけられない子供』

10歳の主人公が東京の下町浅草界隈で友達と遊んだ世界が描かれている。


「僕」は向島の少年で、当時名所の一つだった通称「十二階」凌雲閣の近くに出来た遊園地ルナパークに友人たちと遊ぶところから始まる。

【このルナパークは、その頃の東京中のあらゆる子供らによって夢みられてゐた、共通の一つの膨大な夢であったと云って差し支へありません】

【そしてそれらのすべては大人の娯楽物を巧妙に模倣してつくられてありました。子供らの驚くべき模倣性、それは確かに子供らの世界を大人らの世界以上に詩的にしてゐるものであります。「詩は現実を模倣する」といふ考へ方は、少しパラドクスめいてはゐますが、決して誤っては居りません】


そんな、現実を夢として生きる子供らの話として描きながら、於菟という名の少年が出てくる。この子供がタイトルになる訳だが、於菟とその姉のお絹さんは両親に先立たれて、「僕」の十二階の演芸部主任をやっていた叔父への懇願により、十二階の下の物置小屋のような所で生活を始める。


なるほど、結末を含めて「詩的」である。悲惨な現実も子供らには詩的な世界でしかない。於菟の手におえない悪行というに相応しい「遊び」もまた現実の中の夢なのだ。因みに、於菟とは…森於菟彦となれば堀辰雄の後年の『楡の家』の登場人物ー芥川龍之介ーであり、森於菟となれば森鴎外の息子となる。



手におえない子供…子供とは本来そうなのだろう。良い子とは大人が作る子供の側面に過ぎない。その(良い子)を完全に作ろうとすれば、子供は甚だしく歪んだ空疎な人格となるのがオチであり、現代はその両極の子供への対応となって痛ましい事件さえ頻発するようになった。そんな事も思い浮かべながら、堀辰雄の端正な文章を楽しんだ。


浅草を舞台として知っている作品として、川端康成の『浅草紅団』では、風俗小説として描かれた浅草だが、堀辰雄は幼い子供らに焦点を当てて「夢」の美を浅草に描いた。やはり、個性の違いは際立つ。

手のつけられない子供となると真っ先に思い出すのは金子光晴であり、辻まこと宮本輝など思い出すが、本来子供というのは「手のつけられない」人種なのだ。特に金子光晴レベルは10歳の頃で完全な動物的リアリストであった。比して堀辰雄は繊細な思索者であった。また川端康成は容易く戦争協力作家となる。
その堀と金子が共に後に筋金入りの反戦国家主義となると、どこに共通項があるのか理解したくなるが、話が広がり過ぎるので後の機会に。


時折、梅雨らしい弱い雨が庭に降込めたり、雨が上がると霧に覆われたりと、周囲の自然も変化に余念がない。猫たちも雨が上がると遊びに出る。カナブンがチビ猫に捕まってオモチャにされていた。ひっくり返されてバタバタしてたが、次第に動きが弱ってくるので掴んで茂みに放り込んでやった。玄関先の猫のご飯茶碗の周りでは、溢れた餌に蟻たちが群がって神輿担ぎをやっている。リーダー蟻の指示は的確で、感心する。

 

写真 私の脚の上も寝場所と心得るモン太郎。
我が家の「手のつけられない子供」である!

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