pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

歌誌投稿拙歌への「添削」とそれへの質問

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「ヤママユ」歌誌投稿拙歌への「添削」削除とそれへの私の質問

 

1 午後4:45暗く汚れた通勤路人ごみの脇ホームレス蹲る
2 午前0:27救急に運ばれし泥酔の女子手当する若き看護士
3 午前3:43オリオン輝く空の下ベッドを巡る介護士の影
4 午前8:30扉を開けて帰途に就く光風清浄刃のひじり


以上連作4首について2、4不掲載削除。

 

「初句をどう読むのでしょう?大幅な字余りになるのは短歌の枠をはみ出し散文化してしまいます。四首とも削るのは惜しいので適当な初句つけました」
四番目の「ひじり」について「有能な外科医の意でしょうが、少々無理です」

との本部編集者のご指摘を受けました。

 


さて初句は4首とも時刻表現ですが敢えてアラビア数字にしたのは時間感覚における現実感を重視したからです。ただし読みは「ゴゴ ヨンテン ヨンゴ」と読めば字余り一字となりまったくの許容範囲内ですが、ご理解いただけなかったようです。「午後五時前」と直されてしまいましたが却って散文的になりはしないか・・・
いかがお考えでしょうか。


 また同じ1首目の「蹲る」で字余りがひどいのですがそれは看過され「脇」の下に「に」を入れられました。私としては無用な「に」と見ています。
また「有能な外科医」という読みは全く予想外でした。おそらく、連作4首通さねば理解不能な「光風清浄刃のひじり」でしょう。夜勤という過酷な業務に現場で大きな責任を負って働く人々を詠んだ歌です。まぁ連作4首でも理解不能かも知れませんが掲載は2首となり、更に理解されない連作となりました。

 

また、介護士の「士」を「師」に改めて掲載されましたが、「士」を用いるのが通例です。反対に看護「師」も通例なのですが、私のその二首を並べた意図の一つに、一方を看護師と呼び一方を介護士と呼んだままの、介護士を見下すような現状へのささやかな抵抗です。


5 さざなみの寄せては返す春の浜黒き瞳のまぶしきを知る
6 雪洞に思ひかさねて歩むかな弥生の宵の花の下道

この2首、問題なし。


7 碌山の美術館立つ背後には常念岳の聳ゆるをみゆ


結句の「を」ではなく自然に目に入る意味で「が」に改められましたが、私としては「を」によって私の意思を込めたかったということです。
いかがお考えでしょうか。

 

8 後ろ手に空を見上げし裸女ひとり碌山の愛とこしへなり

問題なし。

 

9 LOVE IS ART,STRUGGLE IS BEAUTY碌山の意思刻まれり美術館なり


「字余りすぎます」とのご指摘で不掲載。覚悟していましたが、実は英語圏で「tanka]と呼ばれて英訳短歌もあれば英語での実作もあるようです。つまりは英単語を音節(syllable)としてどう扱うかが問題です。英語の音素に従えばそもそも不可能(す⇒su)で、ほぼ倍の音素になってしまうのは一例で複雑なsyllable構成があります。また連音もあります。この問題は日本人が外国語使用を短歌や俳句と認める場合、その音節理解が前提で困難な問題ですがいかがお考えでしょうか。



私としては、碌山が英文で記した言葉をそのまま用いたかったわけです。訳文ではおそらく碌山の意図するニュアンスが変質してしまう危惧を持ったからです。つまり「LOVE IS ART,STRUGGLE IS BEAUTY」を正しく短歌表現に取り入れるためにはどうしたら良いかという問題提起ですが・・・その点いかがお考えでしょうか。

また4句め「刻まれり」を「刻まれる」と改変されましたが、この「り」下に体言(名詞)があるので受身助動詞「れる」連体形とご指摘頂いたと見ますが、私としては「刻む」の未然形である「刻ま」に、受け身の助動詞「る」の未然形「れ」に継続・存続の助動詞「り」をつけて考えたものです。私の意図はその意味構成にありますが、いかがでしょうか。因みに文法的正誤をも考慮してのことで「刻まれり」としました。いかがお考えでしょうか。

    
10 Nevermore 夢のまたゆめ夢のゆめ見果てぬ夢のゆめのごとくに
    「ゆ」音の重なりがリズム的にもいいとのお褒めをいただきました。私としては「Nevermore」に込めたエドガー・アラン・ポーの心に迫りたい一心です。 


11 オルフェウスかすかに聞こゆ木立よりグレイに沈む奥武蔵の里
12 思ふのは幼き日々のすすき川さらさら流れ揺れし月かげ
問題なし

13 赤鬼は青鬼消えて泣きました黄金の稲の波につつまれ

「色彩感が良く、くっきりと目に浮かぶような メルヘン。口語体も効いている」と、お褒めの言葉を頂きました。


14 老媼はおはかにひなんしますと縊死南相馬市3・11

これは「同右」とあり不掲載削除となりました。「同右」とは推量するに字余りですが、上記1~4で述べたように「サンテンイチイチ」と読むなら字余り許容内かと。また「散文化」という点も「おはかにひなんします」という老媼の言葉をどう理解するかで大きく変わっていきます。私としては勿論今回の提出歌で最も重要な歌としています。
いかがお考えでしょうか。
  

15 鯉幟立てる如くに意気揚げよ人生いまだ終わらずに在り

結句の「在り」を「在れば」と直して掲載頂きました。「在るのだから」とご説明頂きました。意味的に異存はありませんが、「だから」という説明的な「ば」より、きっぱりと断言する姿勢を友に伝えたかったのです。また字余りも防げます。
いかがお考えでしょうか。

 

願わくば以上①~⑦についてご教授いただければ幸いです。


追記
字余りの問題、当然大幅な字余りは「散文化」の危険がありますが、しかし現代短歌を散見するに結構字余り過ぎるのが横行。

 

例  岡井隆『ウランと白鳥』より

1、北辺(ほくへん)に逐ひやらはれてしづまるかウラニウムの神プルトニウムの神

2、マス・メディアを瘴気の沼へ引きずり込む五月蠅(さばえ)として思(も)ふ民衆(マス)は酷き

 

上記のカッコ内は元歌ではそれぞれのルビになっています。

字余りがこうも酷いわけです。字余りへの許容範囲が拡大して良いなら、仰る通りの短歌の散文化が進行して行く訳です。これをよしとしないなら(実は私はその立ち位置です)、その2首にあるルビの横行などもってのほか。ついでに歌の中に「 」を入れたり、句読点を入れたりなどが出てきます。さらには外来語の「マス・メディア」の点を入れるは、一方、万葉語の「もふ、さばへ」を入れたり、民衆を「マス」と呼ぶのは英語圏の人には理解しがたい用法ですし混乱を極めています。更にその岡井の用い方には「大衆」への蔑視が含まれています。拙歌14を岡井と対比させたいと思います。

いつからこんな世界になったのか勉強不足ですが、字余りは少しは許容しても「 」を入れたり、句読点を入れたり、ルビまでいれたり・・・猖獗を極めた現状にしか私には見えません。これで芸術院会員。お里が知れる芸術院ですね。尚、前衛という便利な言葉で誤魔化していますが、前衛もどき。
これらの新しい短歌の技巧が、表現の進化という視点で言うならもはや短歌とは呼べないと思います。「 」を入れたり、句読点を入れたり、ルビまでいれたり・・・そんなのをどうやって詠むのか。声に出して詠むという短歌の根本が無視されているわけですから。


さて、54号への私の拙い歌に対し、ご丁寧な添削を頂き心から感謝申し上げます。
なにせ加入してまだ一年の未熟者です。ご寛恕願えれば有難く存じます。歌会の現状も何も知らずに、大先輩にこのような私見を申し上げるのはひとえにご教授を乞い願うからです。不掲載となった理由は大いに勉強になります。願わくば上記の私の疑問にさらにお答えいただければ幸いです。(一方通行ではあまりに虚しいので。)

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以上について、本部編集の方にお送りする予定です。
前号では編集の方が提出歌をいくつか無断で削除して歌誌に掲載し、それの削除理由をお教え願いたいと書き送ったら、その返事はなく、今号に於いて以上の「添削」と削除をして掲載頂いたのです。編集の方に悪意は勿論なく、おそらくこの世界の習慣でしょう。上記の添削削除理由が掲載誌とともに送られてきたわけです。それについての私の意見を記しました。

 

願わくば皆様にご賢察ご意見ご感想頂けると大変うれしく存じます。