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「信濃路にみる<恋-愛>のメモリ」ー堀辰雄/<看取り>の結婚者ー 講師 東洋大学名誉教竹内清己
27日土曜1時半より上記の講演会(秋の講演会)に参加した。場所は文学記念館近くの追分公民館。台風や大雨の影響で電車不通区間もあり、参加者は少ないかと思ったが、会場は8割は埋まっていた。
今回の講演テーマも興味津々。「信濃路にみる」との通り、信濃路に絡む古典も取り入れての竹内清己先生の熱弁を拝聴した。
資料A4版14枚
序ー夢の告げ、あるいは夢の中の想念
①竹内清己「看取りのフィアンセ、あるいは青春の別れ
ー横光利一『春は馬車に乗って』と堀辰雄『風立ちぬ』 に見るー
1「病める人、病んで死にゆく人。看取る人。そしてそこには大変な疲労や葛藤やそういうものがあるわけでありますけれども、一つの文化の知恵として、あるいは近代を知ってしまった我々としては、そういうゆとりの場というものを、浪漫化に導かれながら、やはりそういうものをも可能にするような場というようなことを、考えていかなければならないと思います」
2「医療というものを使わなければならないけれども、精神の持ち方とか、あるいは人間の尊厳だとかいうようなことの道を、芸術表現は担って、何らかのひとつの作品にしうるのではないか」
横光利一『春は馬車に乗って』については新心理主義の文芸思潮のなかでの堀辰雄をとらえるという事。
浪漫化という言葉がでたが、これは日本人のいう「ロマンス」とはいささか違い「新しい人」となる、そんな意味であろう。勿論そこには恋愛が介在するのである。
「ゆとりの場」とは介護者被介護者の存在環境意識環境が「文化的知恵」を前提に「浪漫化」などに於いて「可能となっていく」願いと私は読んだ。おそらく竹内先生は今の日本の現実が悲惨であるからこその主張であろう。実際私の知る範囲では、真剣篤実な介護を行うものは少数であるとは言え、彼らは悲惨な現実環境のなかで懸命に介護に努力し、おそらくは人間的な新しい自分の内面を作っているのではないかと思う。
それは介護者対被介護者の属性を超えて人間対人間となるからだ。意識するしないに拘わらず人間対人間の作用はそうなっていく。死に向かう病いを介在者としての相互作用である。
そこから2が導かれるが『風立ちぬ』の登場であるが、この章では先生はまだ立ち入らない。
③「豆自伝」1949・11 堀辰雄
「いま私は信濃追分の仮寓にゐる。この浅間の麓で病を養うやうになってから、既に五年の歳月を過し、また凍雪(しみゆき)の季節を迎へようとしている」
戦時中の信濃追分の冬の厳しさは現代の比ではなかったろう。そんな中に妻多恵子とともに移り住んだ。
④「わぎもこ」1952・3・23
「もう足かけ九年、こんな信州の山のなかにこもって、なにひとつ嫌な顔をせず、寝たつきりの、めんだうな私のおつきあいをして貰ってゐるのは、なんともありがたいことだ」
竹内先生はここで「ありがたい」=「有難い」と説明。つまり困難の意味だがそこに堀の愛を見る。
一、信濃路
①古事記②万葉集③伊勢物語④更級日記⑤謡曲⑥平家物語⑦松尾芭蕉⑧中村真一郎『文学の地理学』⑨『姥捨』堀⑩『ふるさと人』1943・1
以上の項目の説明。愉しい和歌や文が溢れる。特に⑨『姥捨』においての引用
「或晩秋の日、女は夫に従って、さすがに父母に心を残して目に涙を溜めながら、京を離れて往った。穉い頃多くの夢を小さい胸に抱いて東から上って来たことのある逢坂の山を、女は二十年後に再び越えて往った。「私の生涯はそれでも決して空しくはなかったー」女はそんな具合に目を赫やかせながら、ときどき京の方を振り向いてゐた。
近江、美濃を過ぎて、幾日かの後には、信濃の守の一行はだんだん木深い信濃路へ入って往った」
勿論堀の晩年の創作であるが、若い女にそう思わせたところに堀の人生観が投影されているのではないか。そして信濃路への堀の愛着。彼は治療で軽井沢逗留を始めながらついには「疎開」という動機もあるが、信濃追分を「仮寓」とした。仮寓・・・既に彼にとって現世が仮寓であった。勿論このような認識は芭蕉、西行、そして李白の「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過各なり」に通ずる。気取りではない。堀の場合はその実感としての「仮寓」であったと思う。溺愛してくれた母の震災死、私淑した芥川の自殺、愛弟子の立原道造ほか、彼は自身のなかに死を抱えながら幾多の愛する者たちの死を見てきたのだった。
二、恋‐愛
①に於いて日本語の恋と愛の用語を列挙。如何に日本語すなわち日本人の心に愛や恋へのとらえ方が豊かかを見る。
②「松風」謡曲
「思ひを乾さぬこころかな 変わらぬ色の松一本。緑の秋を残す事の哀れさよ」
こころとは思いを干からびさせるようなことをしない。松とは待つこと。変わらぬ恋を待つ。
謡曲松風のなかの恋は主要なテーマの一つ。
③「恋の重荷」謡曲
老人が高貴であるが陰湿な女御への恋に苦しむ。
④佐藤春夫「水辺月夜の歌」
せつなき恋をするゆゑに 月かげさむく身にぞ沁む
身をうたかたとおもふとも うたかたならじわが思ひ
⑤北原白秋「落葉松」
「松」=「待つ」→「さびし」
「浅間嶺にけぶり立つ見つ」の「立つ」とは?
⑥立原道造『萱草に寄す』より「はじめてのものに」
いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
火の山の物語と また幾夜さかは 果たして夢に
その夜習ったエリーザベトの物語を織つた
「立ち初む」恋の始め
⑦立原道造『優しき歌』より「夢みたものは」
夢みたものは ひとつの愛
ねがったものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と
ここにおいて二のタイトル設定の意味が明確化される。
序曲
「風立ちぬ、いざ生きめやも」→誤訳ではない、願望。
冬
「私はそれから急に力が抜けてしまったやうになって、 がっくりと膝を突いて、ベットの縁に顔を埋めた。さう してそのままいつまでもぴったりとそれに顔を押し付け てゐた。病人の手が私の髪の毛を軽く撫でてゐるのを感 じながら・・・」
介護する私がされる側の婚約者節子に慰撫されているシ ーンである。のちに妻となった多恵子がこのシーンを読 んで苦しかったかもしれないが、これが介護の人間対人 間の関係である。
死のかげの谷
「おれはおれに勿体ないほどのお前の愛に慣れ切ってし まってゐるのだらうか。それ程、お前はおれに何んにも
求めずに、おれを愛してゐて呉れたのだらうか?」
「死のかげの谷」は1937年執筆開始。既に多恵子が堀の介護に入っている。
⑩女性譜 堀辰雄と関わる女性たち
志気(母)多恵子(妻)内海妙(初恋)片山広子聡子 母子 矢野綾子(婚約者)佐多稲子 中里恒子
以降、矢野綾子譜、多恵子譜として詳細な年譜。
次に堀辰雄の作品や手紙と多恵子の関わり年譜。
七 看取りの結婚者=随筆家堀多恵子
堀多恵子作品より
⑦「おもかげ」 一九五九年一〇月信濃追分にて
「私は今でも机に向かって静かな気持ちで「風立ちぬ」を読むとき、自然に目頭があつくなって来るのをどうすることもできません。」
⑨「辰雄の晩年」
「やがて五月には七回忌がめぐって来ます。何の不自由もない東京の生活の中で、あの厳しい寒さの追分に帰ってみたいと思うふのは、何も大昔のひとびとのやうに死者の霊が山に棲むと信じるわけでもないのですが、あの「雪の野を赤あかと赫かせながら山のかなたに落ちてゆかうとする日」を見たいと思ふからなのです」
結ー生きることは、文学すること 文学するとは生きること
室生犀星から
「悼詞」
堀君、君こそは生きて生き抜いた人ではなかろうか、一日の命のあたひをていねいに手の上にならべて、労りなでさすって、けふも生きてゐたというふうに、命のありかを見守ってゐたひとでなからうか。君危しといはれてから、三年経ち、五年経ち、十年経っても、君は一種の勇気をもって生き続けてきた。
『我が愛する詩人の伝記』
「それにしてもたえ子夫人の看とりがなかったら、堀はあんなに永く生きていられなかったであろうというのは、あとの残った私どもが彼女におくる褒め言葉だったのである。彼女はそんな褒め言葉なぞいらないと言うだろうが、横を向かないで受けとってほしいのである。
恋・愛ー生きて!
この講演の最後にこの「生きて!」を老教授は力を込めて叫ぶように語った。「文学することは、生きること」をお示し下さったのである。それは自分の人生を堀に与えた多恵子夫人の思いであったろう。そして彼女は2010年4月16日まで生き切った。96歳であった。
今回、往きの新幹線は立ち席、復は辛うじて座れた。復旧はまだまだ。
竹内清己先生
竹内清己先生の90分休憩なしの熱弁に感謝。また堀辰雄文学記念館様多謝。