pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

『山人の賦1』尾瀬・奥只見の猟師とケモノたち 平野惣吉 白日社

会津駒ヶ岳(借り物です)

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引き続きシリーズを3冊読んだ。

前回のは秋山郷に住む山田ハルエ さんの口述本だが、丁寧に口述を壊さずに文字化しているので、その語り口が生き生きと伝わってくるのも、このシリーズの特色である。註が丁寧なのも良い。大事に作られた書物であることが伝わる。

 

山田ハルエさん の話では驚かされっぱなしだった。麻酔の効かない盲腸炎手術やら、子どもを助けたい一心での夫婦助け合っての雪山越えとか、その他にも生き抜くに必死だった暮らし。そんな中での雪山越えの話では、下山途中の猟師小屋での一泊の様子も極めて示唆に富む美しい話だった。疲労困憊の挙句の、地べたに枝を敷いただけの上に凍えながら眠ることもままならぬ夜更け、小屋の天辺に開いた穴から煌煌と月が見えた。「ほんとうに澄み切った月夜なんだよ」とハルエさんが回想するシーン。ひもじさと疲労と極寒の震えのなかで彼女はその月の美しさに心が奪われた。その心性。余りに美しい。

 

このシリーズに登場する山人(やもうど)の男たちも亦同じなのだろう。山を心から愛しほぼ自力で山に暮らし抜いた。

平野惣吉さんも同じ。口述当時88歳。

「桧枝岐村は福島県南会津郡の最南西部にあり、新潟、群馬、栃木の三県と界を接し、二千メートルを超える山々に囲まれた文字通りの山村である。また村内には東北の最高峰・燧ケ岳(二三四六メートル)や会津駒ケ岳(二一三二メートル)が聳え、山脈は幾重にも連なって村中山また山に埋め尽くされている。人々は桧枝岐川が舟岐川と合流する山間の僅かな平地に集落を作って住み、やせ地を耕してヒエ、アワ、ソバなどの雑穀を作る他、山の木を伐って昔ながらの木工に精を出し、雪山にケモノを追い、沢に分け入ってイワナを釣り、屋根葺き」職人となって他村に出稼ぎするなどして、何百年もの間、飢えと闘って生きてきた。」     前書き 編者 志村俊司

簡潔に描かれたこの桧枝岐は余談であるが落人部落であった。おおまかに山人と呼ばれる集団は古来被差別民であったがゆえに更なる過酷な暮らしを余儀なくされた。隠れ住む先祖の命脈を受け継ぎながら、しかし差別好きの連中が事あるごとに持ち出す「血統」は彼らの方が「高貴」なのである。そのせいか、写真を拝見すると顔立ちが大変端正である。

 

 

さて平野惣吉さんのお話。


      「貧しい家さ生まれて」

 

・「貧しい上にも貧しい家さ生まれて・・・小学校一年生になっても読本(教科書)は買ってもらえなかっただ。他のものも学校で使うようなものは何一つ買って貰えねえだ」

・いちばん大きい兄さんが仕事できるようになってから、教科書だけは買って貰えただが・・・(中略)それでも六年生になってからはすぐ上の兄さんも仕事できるようになったから、上二人働けるようになったから、その一年だけは、あんまり休まねえで学校さ通って、まあやっと小学校卒業したことにしてもらっただ」

彼は「学校は好き」だったが朝食なし弁当なし。腹が減りすぎてなにも頭に入らない。四年生のとき女の子と並んでいたが

・「女っ子に、ああオラ腹減ったなんて言ったら、いやあ、それ先生に聞きつけられて、おこられたにもなんにも、腹が減ったって今言ったでねえか 朝飯食って来ねえか なんて、そうしてムチで叩かれたこともあるだ」

「そうして学校から帰って、遊んでたりする時、暮らしのいい子供なんどはトウモロコシなんど食べていて、それ一粒でも落とせばいい、それ拾って食いてえと思って、後ついて歩いたことを覚えてるだ。犬がそうだな」

秋山郷のハルエさん同様に彼も山で飢えを凌いだのである。暮らしぶりはまったく同じ。わずかな開墾地を作り、農作業や奉公、釣りや子守、手伝い・・・風呂の水汲みは子どもには過酷だった。しかし、惣吉さんは学ぶことが好きだった。暇を見つけては文字の独習をし大きくなってから青年学校に通って読むだけはできるようになった。更に軍隊に入ってからは「毎日一生けんめえ毎日字習った。日記は毎日なんでもかんでもかかねえなんかなかったから、軍隊にいる三年間は日記だけは毎日書いて勉強しただ。そうして除隊して、十年以上経って、こんだ召集で戦地さ行く頃、三十八歳だったな召集受けたの、ようやくいろいろの本も読めるようになり、字も人前にけえて出されるようになっただ。」

彼は戦地でもいつでも毎日日記を書き勉強した。「まあオレ大きくなってから勉強しただ。今でも本好きで読んでるだ」という惣吉さんは短歌も詠む。難しいと言いながら。

 


      「山で生まれた者」

・「恥をさらすようだが」

恥とは盗伐で逮捕されて前科者になった話だが、読むと明治政府の非道ぶりが分かる。
彼らは冬の稼ぎの一つに曲げ輪作りをしていたが、その材料となるヒノキや松を営林署から買って作る。ところが買った木材だけでは木の性質が合わずに予算だけでは不足してしまうのだった。それで官林盗伐の罪科で3か月監獄に入れられてしまうのだが、本来は村の共有の山林である。生きる糧として必須の木工である。それが賊軍の汚名を薩長に着せられた恐怖と、明治六年の地租改正で重税に耐えられない村民は森林を政府に返上してしまう。その返上した国から木材を買わざるを得なくなってしまったのである。そこにその盗伐問題が出た。
処が、同じ盗伐をした者たちでも別のグループは刑を免れてしまった。それは弁護士を雇う余裕のあったグループであった。こんな理不尽が裁判所でまかり通っていたわけだ。とても法治国家とは呼べない姿がある。いままた同じ状況にあるが・・・
惣吉さんはその前科者の汚名を被せられて監獄でも虐められ、軍隊でも虐められた。「言いわけがましく聞こえる」からと言葉を省略した惣吉さんには矜持が感じられる。

この話は村史及び村民の話にもとずく。「あとがき」に志村さんが補充してくれた内容だが、志村さんの見識と優しさも感じられる逸話である。

 


       「砂子平の開拓」

・「戦争に連れ出されて」

昭和12年9月(38歳)に徴兵されて「支那事変」に工兵として関わる。二年間の従軍ののち除隊(マラリア罹患)。その2年間をかれは「バーチャン(奥さん)も苦労したよ、子供五人かかえて二年も三年も一人でとびまわっていただ」
その間に奥さんは矢櫃平の開墾に入っていたのだった。
「バーチャンはそこさ入って、オヤジと子供五人かかえて、一人でがんばっただ、三年間オラが帰るまで。オラ、一人ぐれえは確かに死んだと思っていただ。大勢の子供だし、オラがいた頃だって、ろくに食う物もねえでいたことだってあるだから、女一人でやってるだから。それが来てみたら、みんな元気で安心したがなあ」

その後戦争の悪化とともに食糧難が襲う。惣吉さんは一人で砂子平の開墾に入る。

「この家も、柱や板はみんなオレが挽いただ。大木切り倒してっから、ヨキで削って、みんな面とって柱にして、この梁なんかも・・・オラの時代はみんな何でもやっただ。家建てるのはできねえ、小屋ぐれえはできるが、家は大工さんに頼むだ」
「バーチャンとこんなに長くいるんなる、まっといい家つくっとけばよかったな」

惣吉さんの能力と人柄がにじみ出る数々の話。

 


・   「生活も楽になって」

惣吉さんちは男の子3人女の子4人。娘が嫁に行ってから楽になったと話す。矢櫃を止めて砂子平で奥さんと暮らし二十年くらい。「百姓はバーサンにまかして」魚釣り。かれはイワナ獲りの名人でもある。釣ったイワナは夜のうちに干し上げて町で売る暮らし。40センチ級のイワナ・・・

餓死年とかそんな話も出てくる。自分ら(親)は食べずに子供に与えた日々もが「なにほどあったかしれねえ」

「それでもまあ子供はみんなあんまり骨折らして、ひでえ目に遭わしたせいか、いい子に育っただ。子供はあんまりかわいがって大事に育ててはいけねえようだなあ、骨折らして苦労させねえと駄目のようだ」

ありゃりゃ・・・山田ハルエさんと同じ見解・・・私は駄目親です。

その他、本の7割は惣吉さんの猟師としての思い出、記録となっているが、シートンより面白いかも。

「ネズミとアリは、リスもそうだが人間よりも利口」とか、タヌキの化かしが実際にあったとか、キツネ火や光玉の目撃とか、彼はつまらぬ冗談を言う人ではない。タヌキの物真似の上手さなどは表現もリアルである。猟師としてはやはり熊相手の話が出色である。

宮澤賢治の『なめとこ山の熊』という童話を思い出す。

「「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」
 そのときは犬もすっかりしょげかえって眼を細くして座っていた。」

そういった小十郎はやがて熊に殺されてしまうが死に顔は「何か笑っているようにさえ見えた」と賢治は描写する。賢治も花巻に在って猟師を見ていただろう。深い同情と共感、そして社会のいやらしい姿もしっかり描いていた。

惣吉さんも猟師として同じであろう。「ハンター」という軽薄残忍な連中じゃない。

・オラ 山が好きだし ここが好きだ

口述当時、惣吉さん85歳奥さん80歳。

「オラのようなやつは、桧枝岐さいて家で遊んでいていいだが、オラその遊んでいるってのがいやだから、ここさ来てるだ。山が好きだし。ここが好きだ。ここにいると。ほんとうに気が休まるだ。オラもう狩り場はやめてしまったが、まだ釣りはできるしなあ、家の周りに野菜もの作って、自由気儘にくらしてるだ。まだ人の厄介になんねえでも暮らされるから・・・・来年の秋までは死なねえから、オレも」

 

 

       「近詠(昭和五十九年)」

春なれば砂子はたのし朝早くめざめつつきくうぐいすのこゑ   (五月一日)

そびゑ立つ燧の高嶺あおぎ見る神々しくも空に光れり
    (六月十日)

水ばしょう花ほのしろく咲き出でて朝日にはゑて光りかがやく  (六月十一日)

平ガ岳大なる山に今だにも残れる雪のいつとけるやら
    (六月十三日)

夏なれば小鳥の声もにぎやかに夜ごとにきくやかっこうのこゑ  (六月十五日)

つゆぞらや小雨降る夜にほととぎすいともさびしくなき渡るらん (七月十日)