pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

『寂しさの歌』金子光晴




『寂しさの歌』   金子光晴




「寂しさの歌」再掲です。関心のある方はお読みください。
           ☆



         『寂しさの歌』 


国家はすべての冷酷な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおもはれる。
それは冷たい顔で欺く。欺瞞はその口から這ひ出る。「我国家は民衆である。」と。    
     ニーチェ 『ツァラトゥストラはかく語る。』


         一

どっからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。
夕ぐれに咲き出たやうな、あの女の肌からか。
あのおもざしからか。うしろ影からか。

糸のようにほそぼそしたこころからか。
そのこころをいざなふ
いかにもはかなげな風物からか。

月光。ほのかな障子明かりからか。
ほね立った畳を走る枯葉からか。

その寂しさは、僕らのせすぢに這ひ込み、
しっ気や、かびのようにしらないまに
心をくさらせ、膚にしみ出してくる。

金でうられ、金でかはれる女の寂しさだ。
がつがつしたそだちの
みなしごの寂しさだ。

それがみすぎだとおもってるやつの、
おのれをもたない、形代(かたしろ)だけがゆれうごいてゐる寂しさだ。
もとより人は、土器(かわらけ)だ、という。

十粒ばかりの洗米をのせた皿。
よもぎのあいだに
捨てられた欠皿。

寂しさは、そのへんから立ちのぼる。
「無」にかへる生の傍らから、
うらばかりよむ習ひの
さぐりあうこゝろこゝろから。

ふるぼけて黄ろくなつたものから、褪せゆくものから、
たとえば 気むづかしい姑めいた家憲から、
すこしづつ、すこしづつ、
寂しさは目に見えずひろがる。
襖や壁の
雨もりのように。
涙じみのように。

寂しさは、目をしばしばやらせる落ち葉炊くけぶり。
ひそひそと流れる水のながれ。
らくばくとしてゆく季節のうつりかわり、枝のさゆらぎ
石の言葉、老けゆく草の穂。すぎゆくすべてだ。

しらかれた萱菅(かやすげ)の
丈なす群れをおし倒して、
つめたい落日の
鰯雲

寂しさは、今夜も宿をもとめて、
とぼとぼとあるく。

夜もすがら山鳴りをきゝつつ、
ひとり、肘を枕にして、
地酒の徳利をふる音に、ふと、
別れてきた子の泣声をきく。


          二

寂しさに蔽われたこの国土の、ふかい霧のなかから、
僕はうまれた。

山のいたゞき、峡間を消し、
湖のうへにとぶ霧が
五十年の僕のこしかたと、
ゆく末とをとざしている。

あとから、あとから湧きあがり、閉ざす雲煙とともに、
この国では、
さびしさ丈けがいつも新鮮だ。
この寂しさのなかから人生のほろ甘さをしがみとり、
それをよりどころにして僕らは詩を書いたものだ。

この寂しさのはてに僕らがながめる。桔梗紫苑。
こぼれかかる霧もろとも、しだれかかり、手おるがまゝな女たち。
あきらめのはてに咲く日陰草。

口紅にのこるにがさ、粉黛(ふんたい)のやつれ。――その寂しさの奥に僕はきく。
衰えはやい女の宿命のくらさから、きこえてくる常念仏を。
……鼻紙に包んだ一にぎりの黒髪。――その髪でつないだ太い毛づな。
この寂しさをふしづけた「吉原筏。」

この寂しさを象眼した百目砲。

東も西も海で囲まれて、這い出すすきもないこの国の人たちは、自らをとじこめ、
この国こそまず朝日のさす国と、信じこんだ。

爪楊枝をけずるように、細々と良心をとがらせて、
しなやかな仮名文字につゞるもののあはれ。寂しさに千度洗われて、
目もあざやかな歌枕。

象潟(きさがた)や鳰(にお)の海。
羽箒(はぼうき)でゑがいた
志賀のさゞなみ。
鳥海、羽黒の
雲につき入る峯々、

錫杖(しゃくじょう)のあとに湧出た奇瑞(きずい)の湯。

遠山がすみ、山ざくら、蒔絵螺鈿(らでん)の秋の虫づくし。
この国にみだれ咲く花の友禅もやう。
うつくしいものは惜しむひまなくうつりゆくと、詠嘆をこめて、
いまになお、自然の寂しさを、詩に小説に書きつづる人々。
ほんとうに君の言うとおり、寂しさこそこの国土着の悲しい宿命で、寂しさより他なにものこさない無一物。

だが、寂しさの後は貧困。水田から、うかばれない百姓ぐらしのながい伝統から
無知とあきらめと、卑屈から寂しさはひろがるのだ。

あゝ、しかし、僕の寂しさは、
こんな国に僕がうまれあはせたことだ。
この国で育ち、友を作り、
朝は味噌汁にふきのたう、
夕食は、筍のさんせうあへの
はげた塗膳に坐ることだ。
そして、やがて老、祖先からうけたこの寂寥を、
子らにゆづり、
櫁(しきみ)の葉のかげに、眠りにゆくこと。

そして僕が死んだあと、五年、十年、百年と、
永恆の末の末までも寂しさがつゞき、
地のそこ、海のまはり、列島のはてからはてかけて、
十重に二十重に雲霧をこめ、
たちまち、しぐれ、たちまち、はれ、
うつろひやすいときのまの雲の岐れに、
いつもみずみずしい山や水の傷心おもうとき、
僕は、茫然とする。僕の力はなえしぼむ。

僕はその寂しさを、決して、この国のふるめかしい風物のなかからひろひ出したのではない。
洋服をきて、巻きたばこをふかし、西洋の思想を口にする人達のなかにもそっくり同じようにながめるのだ。
よりあひの席でも喫茶店でも、友と話してゐるときでも断髪の小娘とおどりながらでも、
あの寂しさが人人のからだから湿気のように大きくしみだし、人人のうしろに影をひき、
さら、さら、さらさらと音を立て、あたりにひろがり、あたりにこめて、永恆から永恆へ、ながれはしるのをきいた。


          三

かつてあの寂しさを軽蔑し、毛嫌ひしながらも僕は、わが身の一部としてひそかに執着していた。
潮来節を。うらぶれたながしの水調子を。
廓うらのそばあんどんと、しっぽくの湯気を。
立廻り、いなか役者の狂信徒に似た吊上がった眼つき。
万人が戻ってくる茶漬の味、風流。神信心。
どの家にもある糞壺のにほいをつけた人たちが、僕のまわりをゆきかうている。
その人達にとって、どうせ僕も一人なのだが。

僕の坐るむこうの椅子で、珈琲を前に、
僕のよんでる同じ夕刊をその人たちもよむ。
小学校では、おなじ字を教わった。僕らは互いに日本人だったので、
日本人であるより幸はないと教えられた。
(それは結構なことだ。が、少々僕らは正直すぎる。)

僕らのうへには同じように、万世一系天皇がいます。

ああ、なにからなにまで、いやになるほどこまごまと、僕らは互いににていることか。
膚のいろから、眼つきから、人情から、潔癖から、
僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいていることか。


           四

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。
君達のせゐじゃない。僕のせゐでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあって、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。
かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、
風にそよぐ民くさになって。

誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。
ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、「天皇」の名で、目先まっくらになって、腕白のようによろこびさわいで出ていった。

だが、銃後ではびくびくもので
あすの白羽の箭(や)を怖れ、
懐疑と不安をむりにおしのけ、
どうせ助からぬ、せめて今日一日を、
ふるまひ酒で酔ってすごさうとする。
エゴイズムと、愛情の浅さ。
黙々として忍び、乞食のように、
つながって配給をまつ女たち。
日に日にかなしげになってゆく人人の表情から
国をかたむけた民族の運命の
これほどさしせまった、ふかい寂しさを僕はまだ、生まれてからみたことはなかったのだ。
しかし、もうどうでもいい。僕にとって、そんな寂しさなんか、今はなんでもない。

僕、僕がいま、ほんたうに寂しがっている寂しさは、
この零落の方向とは反対に、
ひとりふみとゞまって、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といっしょに歩いてゐるたった一人の意欲も僕のまわりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。 

(昭和20・5・5 端午の日) 
  

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以上。

長い詩なので4つに分けました。
この詩「寂しさの歌」が敗戦3カ月前に書かれた詩であり、それは発表など期待すべくもない時期であり、光晴の「寂しさ」のよくわかる詩となっています。

彼は昭和19年一家で山梨県の山中湖畔の粗末な小屋に疎開するが、その前後、長男も乾に来た徴兵検査を二度とも阻止する。気管支カタルを病んでいた乾を雨の中に立たせたりして発作を誘発しようとしたのです。彼は戦死がどれほどむごたらしい、そしてバカバカしい死なのかよく分かっていました。昭和12年中国北部を旅行し、日本軍の大陸進出を洞察して彼の有名な詩集『鮫』(人文社)を刊行したわけです。読み解かれたら「ひやひやもの」の出版でした。

ここにおいても彼の詩は単に美文に止まることなく、日本語の美しさを溢れさせながら社会批評・人生批評を徹底させています。稀有です。


「僕、僕がいま、ほんたうに寂しがっている寂しさは、
この零落の方向とは反対に、
ひとりふみとゞまって、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といっしょに歩いてゐるたった一人の意欲も僕のまわりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。」

勿論時局も身辺も孤立を余儀なくされた中で、長男を必死に守り通すくらいしかできなかったわけです。心を許しかつ可愛がった琉球詩人の山之口 貘も茨城疎開昭和19年は帝国滅亡の前年で既に竹槍事件という言論弾圧事件が起きているが、この毎日新聞の記事では軍部への配慮と同時に戦局の事実を伝えた点で毎日にはまだジャーナリストが存在していたのです。おそらく光晴も読んでいたことでしょう。しっかり読めばもはや正気の沙汰ではない事実が述べられています。

詩のテーマの「さびしさ」という言葉は日本では感情語ですが、光晴はその感情ー情緒的日本人ーに対して思想を対峙させた見事な表現です。むろん詩全体の情調としてのわびしさやさびしさが縦横に表現されたあとの末尾での転換です。

情緒的と書きましたが、未だ日本人は変わらない。
最近の皇室の大行事に十二単のような平安衣装で雅子さんがお出ましですが、片や万葉に帰れでここでは平安王朝。神主は国家神道というでたらめさ。一晩中なにか「秘め事」行事を済ませて新天皇誕生と書かれてましたが、淫靡不可解な「秘め事」という感覚でしか捉えられません。招魂なんておふざけにも程がありましょう。しかし、人々はそれこそ情緒的反応で「お美しい」とか「神聖」とか容易く染まります。

皇室の後ろに腐敗総理一派がいてのセレモニーなのです。それだけで醜悪な儀式となりますね。安倍のバカぶりも酷すぎますがそれを支えるのが日本人の情緒的反応でしょうか。

私は皇室報道と改憲報道に注目しています。皇室は二千年政治権力にとっての道具なのですから。




竹槍事件 狂気がよく見えます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%A7%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6