pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

追悼 中村哲医師




アフガンで凶弾に倒れた中村哲医師。

医療に尽力し、医療の限界が人々の深刻な栄養失調や極端な水不足であることを痛切に理解し、なにより幼い子供たちが待合室で次々に命を落としていく様を見て、アフガンの荒野や砂漠を灌漑し緑なす農地に変えた奇跡の努力はアフガンの人々によって「アフガンの最も偉大な友人」と呼ばれていた。

国内でも

受賞歴

1988年(昭和63年)外務大臣賞(外務省)
1992年(平成4年)毎日国際交流賞(毎日新聞
1993年(平成5年)西日本文化賞(西日本新聞
1994年(平成6年)福岡県文化賞(福岡県)*ペシャワール会として
1996年(平成8年)厚生大臣賞(厚生省)
1996年(平成8年)読売医療功労賞(読売新聞)
1998年(平成10年)朝日社会福祉賞(朝日新聞
2000年(平成12年)アジア太平洋賞特別賞(毎日新聞・アジア調査会)
2001年(平成13年)第7回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞(『医者井戸を掘る』)
2002年(平成14年)日本ジャーナリスト会議賞(日本ジャーナリスト会議
2002年(平成14年)若月賞(長野県 佐久総合病院)
2002年(平成14年)第1回沖縄平和賞(沖縄県) *ペシャワール会として受賞
2003年(平成15年)大同生命地域研究特別賞(大同生命保険株式会社)
2003年(平成15年)マグサイサイ賞「平和と国際理解部門」 
2004年(平成16年)アカデミア賞 国際部門(全国日本学士会)
2004年(平成16年)イーハトーブ賞(岩手県花巻市
2008年(平成20年)第3回モンベル・チャレンジ・アワード受賞(モンベルクラブ・ファンド)
2009年(平成21年)福岡市市民国際貢献賞(福岡市)* ペシャワール会として受賞
2009年(平成21年)農業農村工学会賞 (旧農業土木学会)
2010年(平成22年)アフガニスタン国会下院 表彰  
2013年(平成25年)福岡アジア文化賞大賞
2013年(平成25年)第61回 菊池寛賞
2016年(平成28年)秋の叙勲「旭日双光章」受章
2017年(平成29年)第8回KYOTO地球環境の殿堂入り
2018年(平成30年)アフガニスタン国家勲章
2018年(平成30年)土木学会賞技術賞

など(Wikipedia
もちろん国民なんたら賞は無い。

この中で目を引くのが花巻市イーハトーブ賞と沖縄県の沖縄平和賞である。花巻の良心宮沢賢治に因むのは賢治が凶作に苦しむ農民に土壌改良を死の直前まで教えていたことがあるだろう。奇しくも結果的に中村哲医師は同じく死の直前までアフガンの農民へ献身した。

沖縄県の沖縄平和賞は第一回受賞者として中村哲医師を選出した。日本のなかで中村哲医師は何より沖縄の置かれた理不尽さに心を痛め発言していたのである。

しかし、彼の平和認識はアフガンでの実践がもとになっている。
「みな食うに食えず、やむなく兵士になるのだ。農業で自立できれば誰も好き好んで兵士になろうなんて思わない」
彼は医師としての延長に灌漑を進めた。
清潔な水で体を洗うこともできずに命を落としていく子供やただ悲嘆に暮れるほかにない親たちを直視した。

命を救う、その延長に灌漑事業があったのだ。だから中村哲医師にとっては矛盾しない同じ価値をもつ仕事だった。

昨夜久しぶりに彼の動画を見た。
現地の人々を対等に尊重し宗教も受け入れ誠実に訴える彼は信頼され、やがて尊敬を受けていく。

そんな動画の中で私がうっかり見落としていたことがある。

希望。

旱魃で荒涼とした大地に鍬を振るい、あるいは人力で水路を拓いていく人々の熱心な過酷な労働の中で、彼らは明るく笑顔がこぼれていた。支援組織ペシャワール会の支援には彼らに日当2ドルが払われていた。生活の糧としてそれは重要であった。

しかし、ただ2ドル稼ぐだけのためになら、彼らのそのような表情は生まれない。難民としての悲惨な状況を克服し自分たちの農民としての自立を目指す。みな家族への熱い思いがあったからこそあの過酷な労働の最中にさえ笑顔が生まれた、そう思う。                    

中村哲医師はそんな人々の真実な思いを最期まで受け止めた情とモラルの実践家である。


一方、蛇足だが、ビデオにアフガン攻撃を決定したブッシュ大統領の姿があった。映像は怖い。表情のちょっとした瞬間も映し出される。ブッシュは一瞬翳のある薄ら笑いを浮かべていた。政治家というのは、とひとくくりにすることは憚られるが、何とも残忍な人種である。

中村哲医師はおそらく公の正義としての人生を歩んだ。
私的には帰国の際の家庭だけだったろう。

彼は福岡出身だが、日本の世界に誇る傑出した人間である。ノーベル賞など問題ではない。


アフガニスタンで死亡「中村哲医師」が語っていた「死の際」
https://news.livedoor.com/article/detail/17478749/

1992年には、移動診療に向かうため、辺境の山岳地帯を歩いていたとき、足がすべって断崖に落下した。偶然、生えていた木に体が引っ掛かり、からくも谷底への転落を免れた。仲間の手で助け上げられるまで、中村さんはずっと1匹の蝶を見ていたという。
「「はっとするほど鮮やかな水色の蝶が、サナギから羽化して羽を広げようとしていてね。その様子を、ただ見つめていたんです。死の恐怖というが、いざその場に臨めば、妙に現実的なことを考えたり、とりあえずどうでもいいようなことが思い浮かぶ。死ぬか生きるかのときはそんなもんです」」

凶弾に倒れた時は即死ではなかったと伝えられている。二発目の銃弾が彼の胸を撃つまでの短い瞬間、彼の目に映ったのは何だったろうか。


動画 「武器より水を」NHK Eテレ
  (Eテレは自民党の直接介入をさほど受けないので良心的ドキュメントが多い。これだけはTVを廃棄した残念なことだ

www.youtube.com