pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

ムーミンの知恵と優しさ


優れた絵本には優れた知恵が溢れている。
それは優しさであったり生き抜く知恵であったりするが、子供時代を忘れた大人にも大変大きな力を与えてくれる。

浜田廣介も宮沢賢治もそうであるが、今回はフィンランドの作家トーベ・ヤンソンムーミン谷の仲間たち」を読んだ。

登場人物で異色なキャラクタ―のリトルミー

ニンニは養い親にイジメられ続けてとうとう透明になってしまった。


東京新聞コラム筆洗より。2019年12月12日
フィンランド作家トーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の仲間たち』に「目に見えない子」が出てくる。女の子の名はニンニ。人から皮肉を言われ続けたせいで顔が青くなり、色あせ、ついには見えなくなってしまった▼ムーミンママの薬によって、少し回復するのだが、顔がなかなか見えてこない。ムーミンの仲間で遠慮のない性格のミイはいつもおどおどしているニンニに腹を立てる。「たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」

へえ、さすがというか東京新聞コラムだが、記事に続いて
フィンランド首相に選ばれたサンナ・マリーンさん。三十四歳は現職の首相としては世界最年少という▼幼いころ、両親が離婚し、母親と母親の女性パートナーによって育てられたそうだ。同性カップルである。貧しく、当時の感覚では風変わりに見えた家庭のことを少女はあまり人に話したくなかったそうだ。「透明人間」の理由はこのあたりにある▼もっともそういう家庭が少女を政治に向かわせたのだろう。「平等、公平、人権」に重きを置いた政治を訴えている。その大切さを育った家庭と苦しい生活の中で身をもって学んだ▼タフで率直な物の言い方をする人と聞く。現在はどちらかといえば頼もしいミイに近いらしい」
と結ぶ。

そのミーの言葉、

「たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」

その戦うという意味は深い。

自分の顔、持ってるのか自問自答。

日本人の大半は隠忍自重を旨とし、右顧左眄を性質とし、臆病を糊塗し、学びを受験戦争に勝ち抜く道具としてしか見ることができない。
従ってサンナ・マリーン首相にもスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさんにも罵声を浴びせあるいは皮肉を言うしかできない情けない子ども大人がぞろぞろ出てくる。反知性、いや無知性。

戦うとはニンニとしては理不尽薄情なイジメへの戦いである。
リトルミーのキャラクタにぴったりの言葉だ。
親からも同級生からも虐められている子どもらに、そんな意思が逞しく育ってくれればいい。それを手助けするのが大人の責任だ。
同様に、大人も同じ。ハラスメントに対し戦う力を持たねば、やられっぱなしの暗愚人生となる。
同様に、国家も同じ。

しかし何が一番重要か、自分に決まっている。
自分と闘わなければ自分はない。
つまりカオナシ

トーベ・ヤンソンフィンランドもサンナ・マリーン首相のスウェーデンも過酷な戦争の歴史を幾たびも経験してきた国家である。小国。
その苦難を知恵に転換し豊かな文化国家となった。
その基盤である教育は世界的に有名であり、日本も見学に外遊している連中がいるが、そのフィードバックはない。

一見無邪気なミーの言葉だが、深い。
え?
虐められてる子に戦えなんてかわいそうだろ、と反応がくることもトーベ・ヤンソンはお見通し。

ムーミンママ
「きっとこの子は、しばらくのあいだ、見えなくなっていたいと思ったのよ。」


そう、隠れていたいのは当たり前。無理に引きずりだすなんてのは傷に塩を塗り込めるようなものだ。
近年フォロー校なんてものがある。在籍の学校に行かなくてもそこでの出席が在籍校に認められる。しかし・・・あまりに貧弱な内容。却って人格疎外を受ける可能性が高い。カネ儲け目的の学校だから。

中学時代を「繭」の時代と喩えていた記憶がある。
外からは見えない繭のなかで人知れず成長することだ。そんなゆとりが大人にもない。いや、ゆとりといえば語弊がある。愛がないと言えば正確だ。ムーミンママは愛情たっぷりなのである。

最後にムーミン物語のサーカスのプリマドンナの馬の名言をおまけに。

最初の恋と最後の恋
ちがいはいったいなあに?
これが最後と思うのが最初の恋
これが最初と思うのが最後の恋
・・・なんてね

なるほどムーミン世界は豊かです。