pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

辻まこと   その意を汲むに意を以て当たる

さらば佐原村         辻まこと



 さらば
 佐原村
 さらば
 おまえの 月夜は もう見られない
 馬追いの少年
 阿珍
 おまえのアシ笛に よび戻される
 千万先祖の声も
 もう聞けない
 長根の笹原を 過ぎて行く 風の声は
 渡らいながら 旅を続ける
 あの人たちの はなしだと
 おまえは わたしに教えてくれた
 すべての笛は 風の声
 阿珍の笛は
 いつも わたしの のどもとを あつくした
 それから
 神楽堰の渡し場
 そのしもてで 川海老を釣ることも
 もうできない
 渡し小屋の いろりで その海老を塩焼にして
 渡し守の駄団次と
 どぶろくを 飲むことも なくなった
 あじさい色の 夕暮れが
 足もとから わたしを包むころ
 くりやから ひそかに(あんちゃ)と
 和尚に声を かける
 妹
 ただそれだけで
 お風呂が わいたのがわかる
 声は皆な
 いのち
 音は皆な
 深く
 光は 遠く
 時は 静かに
 ていねいだった
 佐原村
 さらば
 わたしの 佐原村
 もう おまえの処へは もどらない
 ある日
 長根の笹原を 渡ろう
 風の中から
 阿珍のアシ笛が
 わたしの声を
 みつける日まで


       1972年7月30日 武蔵野日赤病院にて




上記、辻まことの「詩」は詩として取り組んだものではない。
癌に侵されながら病室のベッドの上で口述筆記させたものだ(と記憶している)。
辻は詩人ではなかった。
詩以外、エセーや小説、評論、美術や音楽、スキー、山、他、多趣味を活かして活躍したが、文壇とは没交渉であった。

前日記で辻が光晴の「かっこう」を絶賛したことを書いたが、辻まことのエセーを好きな人ならば、また、彼の絵が好きな人ならば、辻の精神や感性にいかに深く詩人の魂が宿って脈打っていたかは得心なさるだろう。

辻は詩人であった。
だから光晴のあの詩に鋭く反応し稲妻の如き批評をなし得たのだ。
ただ、詩作を残していないのは恐らく「詩」への彼なりの敬意、含羞であろう。
光晴の詩へのあの理解のレベルは戦後詩人においても成し得なかった。
そんな辻がやすやすと「なんちゃって現代詩」を作るわけがない。

ただ・・・彼は己の最期を見据えたとき、その苦痛の中で、脳裏に浮かぶイメージを吐き出した。
それが「さらば佐原村」という、紛れもなく美しい詩であった。
詩人の孤独が佐原村という辻の感性的原郷の土や風、水の匂い、アシ笛の音・・・様々なイリュージョンの交響するなかで純化されている。
辻という男の魂の純化、それがこの「さらば佐原村」であり、この一作でもって私は辻を戦後の詩人と位置づける。

詩を吐露してより3年、縊死。



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