pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

三夕の歌 2 西行

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    心なき身にもあはれはしられけり
              鴫たつ沢の秋の夕くれ                                西行法師


「西 行の「鴫立つ沢」の詞書には「あき、ものへまかりける道にて」とある。西行はたまたま夕暮れ時にある沢にさしかかった。木々はモノクロームの風景となって 広がっている。その静けさに突然鴫の羽音が響く。夕暮れの沢を背景にして、まだ明るさの残る空へと鴫はシルエットとなって飛び去る。ここでの「立つ」は 「飛び立つ」ではない。それは夕暮れの沢の空間に現れる「立つ」、出現の「立つ」である。この「立つ」は、「霧が立つ」「風が立つ」「煙が立つ」「雲が立 つ」、それどころか「神が立つ」の「立つ」、すなわち「出現する」の意味である。」   『西行の風景』


桑子氏はそのような「読み」から「鴫たつ沢」を「鴫が突然現れて飛び去った沢」と観る。


夕闇に眠りに入ろうとするモノクロームの景、黒々とした木立の向こうに突如鴫が立ち現れ、羽音とともに掻き消えてしまう。冷え冷えとした沢の水面に現れる波紋が緩やかに静まっていく。


「こころなき」とは仏道修行に入った西行の、俗世の心がないという認識である。
喜怒哀楽を含め人間的な執着心を捨てて己を「空」にすることが大日如来の教え『大日教』であり、西行が「和歌というものがすなわち、如来の真の形体である」とした拠り所であった。


西 洋哲学同様に自心を知ることから始まり、「西行の言葉では、究極の存在(悟りや慈悲)に到達するための方便として和歌が捉えられているのである。・・・ 略・・・とらわれの心を自覚し、清らかな心の存在に覚醒すること、それが虚空の如くなる心に仏像を描くことである。仏像を描き、真言を唱えること、このこ とと和歌を詠うことが同じだと西行は言う。」


「自心を知るという目的に対して、答えるのがマンダラであった・・・神仏習合を表現する垂迹 曼荼羅参詣曼荼羅が日本の景観、風景を描くのも当然のことであった。その日本の風景の持つローカリティに立つ言語が日本語であり、そのもっとも日本語ら しい使用が和歌であった。和歌をもって真言とすることは、いわば、垂迹曼荼羅を和歌で描くことであろう。」             『西行の風景』


西行の詠う花は花であって花ではなく、月であって月ではない。
写実に見えて単なる写実ではない。


「虚空」に映し出された西行の心であり西行の悟りであった。


     心なき身にもあはれはしられけり
              鴫たつ沢の秋の夕くれ     


そんな西行の「心なき身」にも、いやそんな西行だからこそ「あはれ」をモノクロームの風景の中に見出したのだった。


あはれ、という王朝美学が到達した美意識は『源氏物語』によって確立されたが、和歌によって更に思想的裏付けを持った「ことば」としてその頂きを見たのである。


あはれとは何か。


それはそれぞれの言葉に、描かれた世界や自己の眼前に現れる風景の中に見出すほかはない。
「しみじみとした情趣」には違いないが、その形態・形相の、対象とする「世界」の真実・真理をそれらの中に共時的に共感の中で感じ取っていくほかにない。


修行のなかで、俗世を捨て去った西行の「こころなき」心にその「あはれ」は単色の風景を前にして立ち現れたのである。


単色、モノクロームの風景という世界に留意したい。


13世紀には日本でも本格的な水墨画が描かれていたという。

西行の生きた時代に既に日本に入っていた。


その水墨画禅宗を背景に室町・安土桃山時代には全盛を迎えた。


長谷川等伯の『松林図屏風』はその到達点であり絶後であるが、彼の絵は西行に遅れること400年、漸くにしてこの歌の境地を表現し得たと感じる。







 長谷川等伯の『松林図屏風』東京国立博物館

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