pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

たまゆらの露も涙もとどまらず  改稿再掲



たまゆらの露も涙もとどまらず
            なき人こふる宿の秋風
                     藤原定家


本来は定家が母の死を悼み父俊成に贈った歌である。

玉の触れ合うが如き露、儚き露の如き涙は美しく響きあう音を秋風の吹きすぎる音に載せて、慰めとして置きながら母の死を哀傷する。
宿はこの世の仮の住まいとしての宿、人生のたまゆらに置く宿である。

このうたの「人」を「大切な人」と置き換えれば一層の普遍性をもたせられる。



   あるはなくなきは数そう世の中に 
            あわれいづれの日まで歎かん
                      小野小町


全くそのような年齢となり今後生きる限るそのような嘆きは続くのであろう。

今生縁あって「大切な人」との関わりを得、そのありがたさを喪って後に知る愚かさを繰り返してきた。
親しかり友人然り・・・

母の状態が一段と重篤化してきた昨年10月には郷里に住む小父の訃報を知った。
農民として90歳の一生を終えた小父であったがダーク・ボガートの風貌に似てまた歯に衣着せぬ「怒れる男」として生きた。
敗戦後幽鬼の如き姿で大陸から郷里に戻ってきたと母から聞いたことがある。
怒りだけを身にまとい幽鬼となって帰国したのである。
そんな恐い小父であるが私には優しさだけを思い出に残してくれた。
葬式には参列できず、後日、母の分と併せやっと線香を上げに行くことができた。

そこで彼の娘さんから「父はあなたのお母さんをとても偉いといつも褒めていました。」と聞かされた。
母は父である祖父に戦争まもなく戦死された。
祖父は日本鋼管に勤める会社員で、嘉納治五郎から三段免状をもらった。海軍に徴兵され、海軍でも柔道の勇名高かったそうだが、もとよりひたすら温厚篤実で部下にも親しまれていたそうである。
そんな祖父が銃弾1発であえなく散った。
若くして後家となった祖母が役場で働き、母は幼い弟達のすべての面倒を見ながら女学校に通ったからだそうだ。学業も首席だったそうだ。
読書好き、音楽好き、裁縫・洋裁は当時の婦人と同じくらいにこなし、女学校時代は藤原義江の来校の絶唱に心を奪われ、ゼロ戦が校舎上空を旋回し死地に赴く姿を見送ったそうだ。

親のこととて、ほんの少ししか知らなかったボンクラ息子の私であった。

何事も知らぬことが知ることよりはるかに多い。
戦前より現代に至るまで、母のように、それ以上に辛酸を嘗めながら立派に健気に生きた「母」は多かろう。

子が知らぬことを知らさぬままに逝ってしまう。知らぬことも良いが知っていたかったということも残されたものにはあるだろう。

本年6月には会津の義母を喪った。
本年12月、母の一周忌を菩提寺で執り行った。
去年は父の三回忌だった。
年末の同級会ではまたも訃報が続いた。

いま、私は文字通りの愚生として「大切な人」を自問する。
省みてその大切さを有り難く頂戴し行く年を送り、新しき年への標として生きるほか無い。


   今日ごとに今日や限りと惜しめども
           またも今年にあひにけるかな
                        藤原俊成

   今日ごとに今日や限りと惜しみつつ
           またも来る年あひてみまほし
                        無明人



恐れ多くも定家卿ご尊父様の歌を拝借^^。
愚生における「大切」な人の温情に触れ励みとさせていただいた一年でした。

自分においては、愚作「竹取幻想」を再開しました。これは、1作に於いて、古文・漢文・和歌・今様・現代文・現代詩・SF・物語の諸要素を織り交ぜながら、主題を追求する実験です。
このような訳のわからぬものを含め、根気強くお読み頂く方々に励まされもした1年でした。

世相ますます末法^^。
すくい難き愚昧の政治を許してきた我々ですが、救いがたきは今に始まったことではなく、相を変え繰り返し現れつつ破局に向かっているかの姿を呈しています。諦めは前提として、その上で希望を失わずに生きていきたいものです。

お読みくださる皆様に感謝申し上げつつ、来春の一層のご健勝を祈念申しあげます。