2015-08-07 ■ 真夏の太陽が川面をぎらつかせていた。その中を一隻のポンポン船が舟の家を曳いてゆっくり岸から離れていった。 「どこへ行くんやろ?」 貞子が涙声で言った。 『泥の河』ラストシーンである。 信雄の母貞子を取り上げた。 映画では藤田弓子が演じたが、原作より情感を豊かに演じた。 この貞子・夫の晋平という2人の懐に抱かれた信雄は幸福であること当然であるが、このシーンの描く、廓舟と嘲られた被差別者一家への深い共感まで現代の私達が受け継いでいるかどうか。 売買春肯定の男性をこの趣味人でも大勢見てきた。 男に必要だから仕方がないという論調である。 慰安婦問題にまでその発想は直結する。 文庫本解説者の桶谷秀明は、拙日記で取り上げた、水上生活者の娘銀子が米櫃に手を入れるシーンに対し次のように書く。 > こんな哀切な情景が日本の小説から失われて久しいのは、日本人の生活が豊かになったからだろうか。美徳というべき銀子のつつましい幸福を願う心は、三度の 食事にも事欠く貧しさと表裏であろう。しかし、近代生活の味を知ってしまった日本人が、銀子の感受性を失ってしまったとしたら、やはりそれは美徳の喪失に ほかならないのである。失われた美徳は、今の日本人が再び貧困に見舞われる事態になったとしても、取り戻すことはできないのではなかろうか。むしろ貧して さらに浅ましくなる心性が露呈するかもしれない。> 売買春肯定の男たち(女性もいる)や原発再稼働賛成の人達、更に、隣国人や在日の人達への激しい侮蔑・差別発言を繰り返す人達には、この桶谷の予言は当てはまるだろう。 貞子や晋平の弱者(貞子晋平も弱者)への深い労り、共感の根底にあるのは、桶谷の言う「美徳」であり、それは自己を厳しく律するモラルと矜持であり、それらの心性を支えるのがやさしさという心性であろう。 それは船中で自らをひさぐほかにすべがなかった銀子の母を通じて発露される心性に周囲の者達が触発されたものでもある。 私の住む地域は山の上の団地である。 金曜の大雪は70センチ以上で初めて経験するほどのものであった。 住人たち総出で昨日から道路の除雪を行っている。 気が付くと坂を下る主道の歩行者通路を大勢の人が除雪していた。その道は小中学校生の通学路でもある。 妻が言うには田舎では雪が降るたびに親たちが通学路を早朝から雪かきしていたそうだ。PTAがうるさいからではない、自発的な「行事」であったらしい。 主道で車が立ち往生しているのを歩いている人達が助けている。 日頃会話も少ない高齢化団地住民であるが、このような日は疲労困憊ながら笑顔で会話が弾む。 助け合い協力しあう気持ちよさを表情からも感じられる。 そんな雪の一日でした。