pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

映画「道」での対話

拙文「ジェルソミーナを見つけた」において、あえてウィキペディアでの紹介に留めておきました。
この作品に深入りするとそれだけで一冊の本が出来上がります。

と思っていたのですが、やはり多士済々のお気に入りさんでKさんがコメントで

「「道」は好きな映画で何回か観ていますが、最後、ザンパーノが漆黒の夜空を見上げて愕然とする場面があります。
何を見たのでしょう。未だに分かりません」

とおっしゃられました。それで私の愚説

「この部分・・・様々に解釈できる優れて詩的な表現ですね。私はザンパーノがひたすらジェルソミーナを見つけた哀しみを表していると感じます。
ザンパーノはここで初めて己にとってのジェルソミーナを見出すのです。
「野獣」が人間に戻った瞬間・・・とでも言うべきでしょうか。」

とリコメ申しました。


映画をご覧になられた方々にもそのご感想をお聞きしたくなったのでここに新たに『道』についてアップしました。
このラストシーンへの感想をお聞きしたいのです。
よろしくお願いします。

(KOさん)*********************************

ジェルソミーナは、
いわゆる、知的障害者のような設定で
無知が故の無垢、に観客は胸を打たれるでしょう。
それは、自己の人生の方向性を選びとる術も力も持たない者が
ただザンパーノだけを頼りに信じて
ついていっただけの姿に純真さを感じ、
そこに、ニーノ・ロータの音楽が哀しみを増幅させる。
ザンパーノが最後に
漆黒に見たもの、それは無垢なるものから与えられる無償の愛。
失って初めて気がつく愚かな哀しみ。

赤ん坊が、無意識に周囲に放つ愛。
巴琴さんが、グループホームで感じるもの、
暖かさが心に充ちるとき
初めて気がつき
そして、世の残酷さに気づく。
愛、そのものです。



巴琴**********************************

KOさん、

確かにそのような設定ですね。
しかも、敗戦後の荒廃したイタリアの風土が背景ですね。
そこにジェルソミーナが存在するというのは暗示的です。
知的に高度なはずの政治家や資本家らが戦争という最悪の犯罪を進め健常者たちが支持した結果の焦土と無数の死体の山。所謂健常者という存在が如何に狂ったものかがあぶり出されるのが戦争であり、その悲惨の極め付けの戦後にジェルソミーナが登場した事を私は考えます。

「無知ゆえの無垢」その通りです。知性はある程に垢だらけになります。知性とは無知への回帰を願うものであり、それを理解しない知性利権主義者は知識をため込み肩書きを増やすことに余念がありません。
映画のタイトル「道」はそんな無知への回帰、つまり無垢なるものを見出す旅路ではないかなと理解しています。

「ザンパーノが最後に漆黒に見たもの、それは無垢なるものから与えられる無償の愛。失って初めて気がつく愚かな哀しみ。」

おっ しゃる通り、同感です。そのザンパーノの愚かさは健常者の愚かさであり、戦争という破局を作り出した愚かさです。ザンパーノはまさしく、我々だったので す。愛とは無償である。ことさんもそうご理解なさってる訳ですが、この簡単な概念が実は上っ面の理解しか得られていない社会は、また愚かさを剥き出しにし て幾度でも破局をもたらすでしょう。
私たちは、そのザンパーノの愚かな哀しみを果たして自分の哀しみの如くに経験できたでしょうか。
ザンパーノは、その人生の終局を迎える段階で、喪失の深い絶望を得ることができた。喪失の意味を理解したのです。

「赤ん坊が、無意識に周囲に放つ愛。」
そうです。ジェルソミーナは赤子のように無垢なる魂で存在し、その無垢なる魂の価値は親たるもの誰もが共有できるものです。そのはずでした。それを共有できる国民なら赤子を子どもを第一に大切に守るでしょう。ジェルソミーナを最大限尊重するでしょう。

現実は、無能、役立たず、お荷物と蔑み、最低限の「保障」で民主国家と己の醜悪をさらけ出して恥じない国なのです。

私が養護学校で体験した事、それは生徒たちは人間扱いされないという事でした。口の中に唐辛子を詰め込むなんて序の口。教委や校長、教員らは対外的には気持ち悪いほどへつらい、子供たちへの愛情や献身ぶりをアピールする。
私の若い仲間は私を支持したばかりに2人自殺やら不審死に追いやられました。

昨日、麻生大臣が、年寄りはいつまで生きるつもりだ、カネを吐き出せというような発言をしましたが、年寄りも障害を負った子どもら同様に蔑まれていることがよくわかります。

この国は未だ、イタリア映画「道」を自覚せずに70数年来たのです。

従って、この国の健常者の大半を私はザンパーノに遠く及ばない「知的荒廃者」と見ています。
比肩し得る日本映画ではクロサワの「ドデスカデン」くらいしか思い浮かびませんが、そのクロサワの作品もこの「道」にはやはり遠く及ばないでしょう。

そんなこんな意味で私はジェルソミーナを至上の美女と認識します^^
まあバーグマンも遠く及びません^^。

(Fさん)*******************************

日本でのー知恵おくれーという言葉に対し、イタリア語に
ポコー少しーインテリジェンテという言葉がありました。
とても考えさせられました。知恵が遅れているーーに対し、
少しの知恵があるという捉え方ーー。なのかな?と。
勝手な解釈ですが、少しの知恵があるなら、
それを活かせるのではないかーー。
イタリア社会が日本よりベターだとは
一概に言えないでしょうが、弱者に対する認識は
やはり違うと思います。ヨレヨレの老人が立っているのに
誰も席を譲る人がいないという、日本での見慣れた風景。
イタリアでは一度もこの風景は見たことがなくーー。
背景に何があるでしょうか。
欧米文化でしょうか?それともーー。
皮相なことを書きました。(・・;)

 

巴琴**********************************

Fさん、

ポコー少しーインテリジェンテ・・・なるほど、日本人はあくまで「健常者」からの上から目線での呼び名ですが、イタリアは逆なのですね。

「弱者に対する認識は
やはり違うと思います。ヨレヨレの老人が立っているのに
誰も席を譲る人がいないという、日本での見慣れた風景。
イタリアでは一度もこの風景は見たことがなくーー。
背景に何があるでしょうか。
欧米文化でしょうか?それともーー。」
イタリア経験のご披露は説得力がありますね。
かの地での文化との違いは明瞭ですね。
日本人はかつて「儒教」という縛りでの道徳がありましたが、今は為政者挙げて道徳を放棄しています。
モラル・・・公徳心と呼ぶものが向こうにはある。ましてイタリア人は生活のゆとりを大切にしていると聞きます。

 

(Kさん)*******************************

これがザンパーノが空を見上げるラストシーンですが、
https://www.youtube.com/watch?v=rR-JvfjXS9M
私は、ザンパーノが夜空に見たものは、天罰を下す神の姿あるいはジェルソミーナの幻影だったのだろうかと単純に考えていました。
しかし映像をもう一度よく見てみると、ザンパーノの視線の動きはそういった何か具象的なものを追っているようではないですね。
巴琴さんが仰るように、ザンパーノが暗黒の闇の中に見たものは、果てしなく深淵な絶望感や喪失感だったのでしょう。
と同時に、ことさんが書いておられますように、「それは無垢なるものから与えられる無償の愛」を理解した瞬間だったと言えるかもしれません。

ある動物行動学の専門家は、人間を含むすべての動物は「攻撃性」を持っており、それは個体と種の生存にとっては不可欠な属性である、と説明しています。
人間の場合はそれを「知性」でコントロールできそうですが、逆にその知性によって「攻撃性」を「残虐性」や「狂気」に脱線させてしまう大きなリスクを持っていますね。
「攻撃性」を知性で制御できたものがスポーツ、知性が脱線・暴走した結果が戦争と言えるでしょうか。

こ の映画は、全体をとおしてザンパーノの攻撃的で愚かで醜い一面(=人間の本質)を描きつつも、最後にザンパーノの心の奥深くに隠されていた愛を導き出して 救いとした。そして、その「救い」を可能ならしめたのが、知性に欠損があるが故の一途で純真で無垢なジェルソミーナの存在であり、その死であった、と理解 できそうです。
人間の愚かしさ哀しさに焦点を当てながら、無垢な愛の力と可能性を描いた素晴らしい作品だと思います。

 

巴琴**********************************

Kさん、

Kさんの疑問から出発してことさんのコメントにまで至る中で、私自身もこの作品を見直すことができ、コメントを寄せていただいた方々皆さんに深く感謝しております。

「ザンパーノが空を見上げるラストシーン」
ご紹介ありがとうございます。
再確認できます。

「ザンパーノが夜空に見たものは、天罰を下す神の姿あるいはジェルソミーナの幻影だったのだろうか」

私は初めに申し上げたように、様々な解釈が可能な詩的シーンであるという見方から、カラマツさんの解釈、間違いとか正しいとかではなく、そのような解釈も全く当然あり得ると感じます。

天におののくザンパーノ。
それもまた神に目覚めた人間ザンパーノの生まれた瞬間であったでしょう。
ことさんやカラマツさんの解釈と私の解釈みな足してザンパーノが人間として覚醒した瞬間としたいですね。

「ある動物行動学の専門家は、人間を含むすべての動物は「攻撃性」を持っており、それは個体と種の生存にとっては不可欠な属性である、と説明しています。」
その説は聞いたことがある程度ですが、その専門家は、ではなぜ攻撃性を有しない人間がいるのかという問いに答えてもらいたいものです。
も ちろん、人間のその手の攻撃性は歯止めのない「狂気」と私は理解しています。ご指摘の「、逆にその知性によって「攻撃性」を「残虐性」や「狂気」に脱線さ せてしまう大きなリスクを持っています」という点同感です。知性とはそもそも「壊れた知性」とあるいは「不完全な知性」と私は理解します。
スポーツは暴力的戦争の代理行為という見方も昔聞いたことがあります。確かに一部の異常な興奮を引き起こすサッカーなどそうかもしれません。

「最後にザンパーノの心の奥深くに隠されていた愛を導き出して救いとした」
同感です。
ザンパーノは愛に覚醒したのだと感じます。
人間になったのです。

「そして、その「救い」を可能ならしめたのが、知性に欠損があるが故の一途で純真で無垢なジェルソミーナの存在であり、その死であった、と理解できそうです。」
全く異論ありません。
ただ、ジェルソミーナに触れるなら、やはり彼女は隠喩としての天使ではないかと感じます。
「知性に欠損があるが故の一途で純真で無垢なジェルソミーナ」
まさに、その欠損こそが天使の本質であると私は理解しているからです。
その意味で観れば、ザンパーノが暗黒の天を見上げるシーンは、やはり、「天罰を下す神の姿」を見たのかもしれませんね。

「人間の愚かしさ哀しさに焦点を当てながら、無垢な愛の力と可能性を描いた素晴らしい作品だと思います」
全く同感です。

このようなやりとりをさせて頂き、まことに楽しく過ごせました。
ありがとうございました。

 

OAさん*******************************

すばらしい解説感動しました。
無知の知、結局ここに深い真実、人間業でない真実があるのでしょうね。
しかし養護学校がそんなにひどいとは…
唐辛子を先生につっこまれて、これからの人生誰を信じるでしょう。なんのために生まれたのか、思うだけで涙をもよおします。
しかし自分も同じ境遇なら同じことをしたかもしれない。それが人間なんでしょうね。
汝自身を知れ。でした。
正気を保ってなきゃならない。そう思いました。

 

巴琴**********************************

無知の知、結局ここに深い真実、人間業でない真実があるのでしょうね。」

さすがOAさんですね。無知の知をそのように緩用なさるとは。
まさしく、無知の知は逆にみれば知は無知に至る。

「しかし養護学校がそんなにひどいとは…
唐辛子を先生につっこまれて、これからの人生誰を信じるでしょう。なんのために生まれたのか、思うだけで涙をもよおします。」
ご指摘いただき嬉しく思います。
そんな事は書きましたが、序の口……
養護学校に限らずに今や学校自体が狂気に冒されつつあります。オーアンジェリーナさんはそうはならない^_^

「汝自身を知れ。でした。
正気を保ってなきゃならない。そう思いました」
同感ですね。しかし、それが一番難しい事だと思います。
「しかし自分も同じ境遇なら同じことをしたかもしれない。それが人間なんでしょうね。」
人は皆それぞれの資質を持っています。

 

 

 

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以上、楽しい対話でしたので残しておきます。

「女優も美人とは言い難かった」とウィキペディアに記述されていましたが、このセンス・・・全くダメですね。