pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

長崎と五島列島 遠藤周作

今月10日から13日まで久しぶりに旅行に出た。
遠藤周作と小説「沈黙」の舞台をめぐるバスツアー』というツアーが長崎の観光コンベンション協会主催で募集しているのを知ったからだ。そのツアーは遠藤周作文学館学芸員も同行しガイドするので、知らないことも教えてもらえるし。
 そもそも長崎は昔家族と真夏に行っただけである。知らぬが仏で文字通り炎暑地獄の長崎を歩くなど狂気の沙汰であった。早々に湯布院に避難し、そのあとは阿蘇、高千穂を巡って終わった。

信仰という言葉に若いころから引っかかっていた。
私には信仰はない。近頃、某俳優が「死んだらカルシウムだ」とか言ったらしいが、カルシウムという唯物的思考も私にはない。神仏を信仰せぬ私が信仰を持つ人々を理解できるわけがないのだが、その信仰という問題で(問題と意識する時点で私に信仰者の資格はない)、近年、隠れキリシタンが東北にまで存在し、その残酷激越な弾圧が繰り返されていたことを知った。もちろん、キリシタン信仰を東北に持ち込んだのはキリシタン大名こと蒲生氏郷である。会津藩主となった蒲生氏郷会津城を拠点にキリスト教を広めていたのだ。

しかし、南蛮渡来、紅毛碧眼の宗教がフランシスコ・ザビエル以来、急速に信者を増やすことができたのはなぜか。一つには在地の仏教が当時すでに堕落し、貧窮にあえぐ農民たちを救わなかったということもあろう。人間は地獄の現世、無明の人生という中で、彼岸への救いを宗教に求めてきたのだ。だから、キリスト教、すイスラム教、仏教などの強力な宗教が生まれた土地、拡大した世界は貧窮にあえぐ人々の世界であり、民衆の絶望の証だったはずだ。日本も同様。
 権力の強力な締め付けと搾取は江戸に始まったことではない。生かさず殺さず、逆らえば殺すというのは日本歴史の中で、1945年の日本焦土まで続く農民の実態だった。

しかし、看板の架け替えではない信仰の問題として、日本では隠れキリシタンの問題が存在し続けている。それは「ころび」である。上辺は神社や寺に従属しながらキリシタン信仰の地下活動を子々孫々続けていったのだ。どれほど困難を極めた事であったか。

その「ころび」、現代風に言えば「転向」であるが、遠藤周作は「沈黙」その他の著書で生涯をかけて描いた。それは転ばざるを得なかった弱い神父や信者への擁護であり、弱い人間や自身への擁護でもあった。遠藤周作が見た踏み絵の木枠に、彼は汚れた指の跡を認めた。その痕跡が本物かどうかの詮議はどうでもよい。彼はその跡から「ころび」信者へのインスピレーションを得たのだ。その共感力は遠藤周作の作家としての優れた人間性にあふれた感性であり、愛情にあふれたものだった。

「この国は沼だ」

フェレイラに吐かせたその言葉は、日本という島国が人間を腐らせていくという理解で異存はない。またこの言葉が遠藤周作の現代日本へ向けたものでもあると、私は理解している。

しかし・・・そんな中での隠された信仰を持続させた力とはなんなのか。

私はいつか五島列島や長崎を感じたいと思いながら、10日、ようやく果たせた。艱難辛苦のバイトもこの目的がある。なにせ下流老人であるから格安航空で成田から佐賀空港まで飛び、長崎に入る。長崎で格安ホテルをとり、11日に五島列島ジェットフォイルで行った。タクシー料金を交渉し、6時間貸し切りで教会群を回った。

快晴だった。
複雑な入り江が至る所に澄んでコバルトブルーに輝いていた。
f:id:pakin:20170326145307j:plain
あまりに澄んでいるからか魚影はなく、ドライバーの話では近年不漁であるらしい。

始め山上神社に行ってもらった。隠れキリシタンが神社を装い祈りをささげていた「神社」は山を背にした小さくありふれた姿だがきれいに掃き清められていた。
f:id:pakin:20170326145612j:plain
神社の向かいに廃校となった小学校があった。
f:id:pakin:20170326145807j:plain

「ここも人口が減って、今じゃ2万人ですよ」
「家が10万円で売りに出るくらいです」
「ほんとか?じゃあそこに案内してよ」
「いや、話に聞いただけで」

ドライバーの話も半分に聞くことにしたが、そんな過疎化の中で、隠れの人たちも確実に減っているということだ。

次に中ノ浦教会に行った。
中ノ浦の信徒の祖先は、外海の黒崎村から移住してきた人たちという。移住といっても、外海の弾圧から逃れたか、強制移住である。大正14年建立。尖塔と玄関のアーチがなければ校舎のようだ。素朴だが美しい。
「水鏡の教会と呼ばれています」
なるほど、入り江のほとりに立つ純白の教会は入り江の波のない碧の水面に映えている。
f:id:pakin:20170326145908j:plain
内部では、列柱上部の壁面には島特産という椿の花の装飾が並び何とも可愛いが、その椿の花は一方で殉教の象徴とも言われている。聖マリア像はリアルすぎて艶めかしい。
かわいいルルドが教会左にそっと設けられていた。
f:id:pakin:20170326150000j:plain
次に向かったのがレンガ造りの大曾教会で、これは堂々たる建築である。
f:id:pakin:20170326150140j:plain
鉄川与助という棟梁が建築したものだという。この棟梁は五島はじめ長崎の教会群を建築している。内部の木製の装飾列柱は高い天井を支えるアーチまでつながっているが、こんな木をたわめる技術には驚く。ここも外海地区(西彼杵半島)から逃れていた信者の子孫たちが信徒という。正面にキリストがもろ手を広げているが威圧感が厳しい。比して、日本でのキリスト教受容はマリアが好まれる。遠藤周作も同じだが、日本人は母性的な癒しをマリアに見つけた。

次に鯛ノ浦教会に向かった。
相変わらず入り江の美しさに目を見張る。
f:id:pakin:20170326150258j:plain

「信仰表明と「五島崩れ」」
http://montseibo.blogspot.jp/2009/01/blog-post.html

五島列島キリスト教受容と弾圧はその澄み切った青い海の美しさと先鋭に対立するものであった。徳川幕府の圧政に便乗した愚劣な民衆の姿も垣間見える。上記のブログに掲載されている「鯛ノ浦の六人切り」などはそんなおぞましい民衆の姿である。刀の試し切りにキリシタン部落を襲い、胎児を含めた家族6人を切り刻んだのである。明治3年の出来事である。

「信徒発見」というキリスト教史上の奇跡と称えられる出来事は「浦上四番崩れ」という悲劇も起こしている。1867年(慶應3年)の事である。幕末の大混乱の時代。

明治新政府岩倉具視が欧米視察を行い、先々で日本の宗教政策に非難を受けるまで弾圧を続けていたのである。つまり、徳川幕府鎖国政策を、今度は天皇神格化を目指し、自分らに都合よく作った国家神道で日本を染め上げるために利用したに過ぎない。明治22年の大日本帝国憲法発布により、ようやく信教の自由を認められるまで迫害は続いたのである。その自由は、単なる外圧である。

そんな歴史を見つめさせてくれる鯛ノ浦教会だった。
f:id:pakin:20170326150436j:plain
昼食はドライバーさんが予約しようと電話を入れてくれた魚料理屋は満席で、無念のエビ天うどん定食。

その後、頭が島天主堂に参る。
f:id:pakin:20170326150557j:plain
1869年(明治2年)頃 - キリシタン迫害を逃れ、中通島の鯛ノ浦の潜伏キリシタン無人島だった頭ヶ島に移住(ウイキペディア)し、その後10年かけて建立した石造りの天主堂である。ここには列柱がない。独特の二重の持送りハンマー・ビーム架構天井が素晴らしい造形美を見せてくれる。
f:id:pakin:20170326150702j:plainf:id:pakin:20170326150742j:plain
f:id:pakin:20170326150827j:plain
また、ここはキリシタン墓地が見渡せるが、折しも一組の夫婦が祈りをささげていた。海辺の墓地そのものであり、すぐ下がったところの白砂の浜と遠浅の海の美しさも特筆すべきものである。静けさはどこも同じだが、私にとってはありがたい。

その後、青砂ガ浦教会に行く。
f:id:pakin:20170326150936j:plain
f:id:pakin:20170326151136j:plain
ここも外海地方から移住し、潜伏キリシタンたちがカトリック改宗の後の教会として建てられた。
最後は若松大浦教会。
f:id:pakin:20170326151043j:plain
ドライバーが普段案内しない教会らしいが、外見は殆ど民家である。内側は教室を思わせる。一番ほっとする雰囲気である。そしてドライバーが教えてくれたマリア像は、彼の言う通り、まさに日本女性の顔であった。
日本人のキリスト教受容の行きついた、一つの姿である。
なかなか、ドライバー氏は気の利く人で、半日の時間をフルに動いてくれて中身の濃いい一日となりました。