pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

遠ざかる日々4 蓮の花 カサブランカ

 

蓮の花音なく咲くや朝日浴び
蓮の花朝の光に輝きぬ


 植え替えた大きな睡蓮鉢の棲み家がよほど嬉しいのか、蓮の花が4つ続けて咲きそうである。後2つ花茎が水面から伸びてきている。雑然鬱蒼たる狭い庭で今カサブランカと共に存在感を発散している。


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 蓮の花が「ポン」と開く音。
想像するだに感動的である。
聴いた人がいるのだから否定することはない。私がまだ知らないだけだ。

 ただ、私の記憶の中にそれらしき音があるのだが、その場所もさっぱり分からない。いや、現実に聴いたのかさえ朧げな記憶である。

 聴きたい…そう念じたから、そんな記憶が掘り起こされたのか、幻想として脳に浮かんだのか。もとより夢とうつつの境さえあやふやになりつつある私だから、何を思い浮かべても不思議ではない。


 おのづから月宿るべき隙もなく
      池に蓮の花咲きにけり  西行


「おのづから」は「そのまま」とか「自然に」とかいう意味だとか。しかし、西行はこの歌に仏を描いたと読むのが普通であり、そうなると歌意は仏教の「摂理のまま仏の教え(月)は世を照らしながらも、仏の坐します池(聖地)は仏様が輝いていらっしゃいます」と、これは私の勝手訳だある。

 夜に蓮の花が開くわけない、誤りだと、したり顔の言説もあるが、無粋であろう。第一、月だから夜とは限らない。暁月とは朝の月である。まだ暗いがしかし夜明けの気配を感ずる時刻が「あかつき」なのだ。その夜明けの気配を蕾が吸い取って花を開いていく。そんなイメージで読めば良いと思う。


    暁を抱いて闇にゐる蕾    鶴彬


 この句はそんなイメージで読む。ならば、西行の歌も同じ。澄み切った闇の中にやがて来る暁の気配。蕾は蓮の蕾でも良い。鶴彬が「蕾」を来たるべき新しい人間像として描いたと私は読みたい。彼は先に取り上げた尹東柱より7年近く前に29歳で獄死した川柳作家だが、治安維持法だ検挙され、また正体不明の注射の後に死んだという点、自己の信念に殉じた同じ運命の人だった。
 そんな彼らの、また、純粋に祖国愛に殉じた若き無数の人々、犠牲となった千万人の内外の人々をあざ笑うがごとき現実がある。その灯篭流しの夏がまた巡り来る。

 私は彼の精神に尹東柱と同じ詩人の魂を見る。美しい。まことに美しい、これは詩である。


 庭でもう一つ存在感を発散しているカサブランカは、その強い芳香が居間にまで満ちてくる。こちらも初めて我が家に来たときは一球だったが、3年間で増えた。

 


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 その白きカサブランカの咲き初むる
      なが影うつすその香りかも

 

さて、香りと見れば、蓮の花の香りはかすかではあるが、また素晴らしい。ロータスの香水は一度だけ土産で貰ったくらい。しかし、この生の蓮の花の香りは微かなために逆に気の遠くなりそうな甘い気品を感じさせる。


どちらの花もまたひと時の喜びである。