pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

遺伝的継承

 

そう書くと、学者のカモになりそうだが、確かに遺伝的継承はあると悟らざるを得ない実感を持つ。

つまり、我が人生の半分はご先祖様にあるのだと、因果応報と頗る良き言葉を出さずにはおれない。


私の父は旧制中学校で退学処分を食らった。
中学生の分際で料亭に芸者を揚げて遊んだりしてれば、田舎じゃすぐ学校に伝わる。直接の処分理由は喫煙とか云々だか実は、こんな生活自体が理由だったのだ。因みに、小学生の分際で女郎買いに行った金子光晴には遠く及ばない。
更に、悪友と三羽烏とか呼ばれる程に荒れていた。喧嘩など朝飯前だったろう。

恐らく、あの単純朴訥の正義感と反権力的性格が戦争気分の蔓延する学校への反発となり、家に帰れば謹厳実直を絵に書いたような祖父が長火鉢に座ったまま父を一瞥するのみで、言葉はないという暮らし。息の詰まる日々だったろう。

以前にも書いたが、祖父からの言葉は、退学処分を食らった後の朝、父が登校するフリをして出ようとした時に
「何しに行くんだ」
という一言と、旧制中学校入学時に
「英語だけはやっておけ」

この2つである。もちろん父の非行は祖父の耳に入っていたはずだが、祖母も触れずにいた。

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それで父は已む無く船員学校へ入学した。
多分、海が好きだったのだ。
しかし、その後に英語ができるのと船員学校で学んだ事が海軍で通信室勤務の道を開き、幸運にも生き延びた訳だ。


その父は私ら息子にはやはり祖父的な姿勢を貫いた。通知表という大半の子どもには忌まわしいのが渡される日だけはそれを恐る恐る見せた。

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今、自分を振り返っても、やはり同質性を感じるところがある。
成績にアレコレ毒づく事もなく、なるべくしたいようにさせた。他から見れば、巴琴は過保護だとなるが私自身は過保護という認識は無い。ただ、人間として間違った態度に少し厳しく当たっただけだ。
もちろん親が子の全てを見る、把握するなどとナンセンスな発想も持ったことがない。しかし、保育園、小学校と子どもらを苦労させたので、中学以上はマトモな学校へと通わせたかった。そこに自由の森があり、通わせたのだが、以前書いたように上2人までは良い学校だったが、下2人の時代になると悲惨な学校に変質していた。でもって、下2人には高校進学時に「定時制が良いか?海外が良いか?」と選ばせたのである。上の子はダブリンの高校、下の子はニュージーランドを選んで行った。アルファベットが大丈夫か?というレベルで行かせた。現地では半年の語学学校での教育後に、すぐ高校入学し、ホームから通学した。

随分思い切った判断でしたねとか言われた事もあるが、渡りに舟である。人間至るところ青山ありさ。子どもの判断を尊重しただけ。
しかし、思い切った判断ですね、とか言う御仁の頭はカネの事だけなのだ。論外。
過保護なら、アルファベットも不安な我が子を海外に放り出す事などしないのである。

上の子、すなわち次男は高校卒業後に最近皇室に近寄られている大学に入った。末男は大学まで現地で暮らした。

次男がダブリンに居るとき、一度だけ訪ねた事がある。やはり心配で気が気でないのだ。私の弟も息子を一緒にダブリンに送ったので、弟も同行した。この親2人はもちろん英会話など初歩すら怪しいが飛んで行った。
末男の時もやはり心配で行くぞと何度か言ったがニベもなく却下された。如何にも迷惑と言う根性であった。

話を戻すと、祖父は予科練の父を見に(あくまで見に、である)東京に出向き、橋の下を漕艇中の父を見下ろして帰ったらしい。やはり、似ている。

その父は私の大学入学式に母と共に参加した。
親なんか呼んだのか?という奴も居たが、アホらしい。親が満足するなら十分である。

つまり、放任と親バカが私に遺伝したのであった。付け加えれば、文学音楽への嗜好もそうである。不良の模範生である父は『海潮音』を携え軍艦を転々とした。祖父は菊池寛と交流があった。母は文学。それらが遺伝的継承に知らずしてなったのである。

で、喧嘩っ早いところも多分そうである。私は高校で喧嘩しない学校は無かった。私の叔父は戦後中学教師となったが、竹刀を振り上げて、同僚や校長らを追いかけ回した。
父の息子4人のうち、下2人は立派な不良で1人は高校中退。この2人はヤクザをカモにウサを晴らす連中だった。次男はやたらと勉強好きで大学を2つ出してもらって医師となったが、大企業の役員会で役員を怒鳴りつけるという性格である。しかし、こいつは人を殴った事は恐らくない。
私は1回だけ、日比谷公園で夜間デートしていた時に、邪魔をした霞が関の痴漢サラリーマン4人を殴っただけだが、自分の拳が相手の腹にのめり込む気色悪さを実感して以来、殴った事はない。明朝の新聞を見なければならないアホらしさも悟った。

我が子では長男が荒れた。大学生となってからも吉祥寺駅に屯するヤンキー相手に一人で喧嘩を売っていた。今は温厚なサラリーマンになった。残る一人は娘であるが、男勝りというより冷静過ぎて父としては恐ろしい存在である。これは母と祖母の資質のうちの非文学的部分を、濃厚に継承している。どこまでも優しく温厚は母と祖母だったが、にっこりする時にカミソリを隠すタイプ。

 

オマケにこちらはスッカラカン

まぁ両親と義母の看取りもありましたしね。
つまらん遺伝的継承の話でした^_^


写真、葉の上に小さな透き通った蝶が見えますか?名前を知りません。


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