pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

学生時代

 まぁ、病人が暇つぶしに思い出話にうつつを抜かしている日記なので、ご遠慮なくスルーしてください。
 体調は昨日より随分良くなりました。
火曜に無理して夜勤に入ったので昨日は特に酷い状態で殆ど寝ていました。今は湯上がり快適ですが、やはり横になるのが先で、ソファに横になって、読書するほどの気力は湧かずに、年寄りの思い出話を書いてます。この手なら、イクラでもマグロでも丼丼出せるのです(ひゃー酷いシャレ!)。

 私がヤマをかけて大学入学を果たしたのは書きました。国語は難物の源氏物語にヤマをかけ、日本史のヤマは簡単。全く不勉強の英語は手に負えない惨状でしたが、イディオムを集中的に覚えました。国語日本史は90%、英語は50%くらいでしたか。短期集中^_^

 でもって、入寮選考が寮自治会(自治会は普通)によって行われ、なぜか私は面接が得意というか、好きな性格で、これも通過。
 助かりました。何せ寮費月3000円、食事は3食160円、つまり、月7800円で一月暮らせたのです。部屋は先輩との2人部屋。良い先輩が殆ど。全国から集まっているので、薩摩弁と津軽弁の掛け合いなど愉快でした。更に全学部が揃っていて、その多様さは面白く感じました。我が子もそうですが、寮生活?御免こうむるの学生が普通の今、逆に私は幸運だったようです。
 オマケにこの学生寮学生運動とは一線を明確に引き、右翼左翼ノンポリ何でもありでの共存をモットーとして、しっかり守られていたので平和な寮生活が送れました。

 寮生活に付きももの酒、入寮歓迎会の席で、私は酒には殆ど馴染んでいなかったので、勧められるままに飲み干し、気づくと目の前のグラスが丼ぶりに変えられていて、そこにビールだ酒だウィスキーだとちゃんぽん状態。完全に酩酊を超え、さてトイレと席を立ち、フロアに出ると、千鳥足の初体験。やっとトイレに立った瞬間に猛烈な嘔吐が始まりました。苦しいのなんの。気づくと後ろから相部屋の先輩が背中をさすっています。「巴琴、指を喉に突っ込め」でゲーゲー、一段落して部屋まで送られました。ゆっくり休めと言われベッドに横になった時、ベッド下に新聞紙を敷いた洗面器が用意されていました。半ば意識のない状態でしたが、洗面器が用意されていた理由はすぐ分かりました。横になった途端にまた嘔吐が始まりました。夜明けまで。

 これが入寮の洗礼だった訳です。その後、年中行事で飲み会があちこちの部屋、または階毎、自治会主催のものと有り、そんな生活を4年やっても私は一向に酒は強くならずに終わり、酒を諦めました。ここでは自治会が気を利かし、女子大寮生との合コンやコンパも年中行事でしたが、現代のようなバカな仕業は一切ありませんでした。プライドがしっかり有ったのです。

 大学の方、入学後半年でロックアウトとなりました。大学側が学生を締め出した訳です。学生運動としては最後のもの。学費値上げ反対闘争とか呼んでました。あの当時の総長はまだ誠実さは、今と比べれば失礼なほどでしたが、大変でした。

 学生運動はその後殆ど消えて行きますが、学生運動を否定的な論調で糾弾する連中が多く居ます。世間知らずの無知な若者だ、親のスネ囓りの分際で、とか様々ですが、それらは事実で否定しませんが、では、逆に私はそんな「大人」たちに言いたい。例えば、学費値上げはその後爆発的に進みます。反対する者が不在だったからですが、その値上げ

 「もっとも古い記録として残っている1950年時点では国立大学の年間授業料は法文経系で3600円、私立でも法文経系で8400円。私立の理工系は1967年時点で9万6800円。これが直近の2017年ではそれぞれ53万5800円、77万9906円、114万1909円にまで跳ね上がっている。単純に倍率試算をすると149倍・93倍・12倍である」

この責任を取りなさい。

 また、こどもたちの自殺、私までの教育心理学などでは小学生の自殺はあり得なかったのですが、他の中高生の自殺と併せ、その後急激に増加します。教員の自殺も入れましょう。

この責任を取りなさい。


 何てね、責任感の欠片も無い連中に言っても仕方無いですが、その後の学校の「反動化」は凄まじいものがありました。学校、教員、児童生徒は真綿で首を絞められるように窒息して行きます。この反動化が、「大人」たちの無責任無関心と併せ進行し、今や学校は絶命寸前と私は見ています。為政者は内心喜んでいるでしょう。

この責任を取りなさい!

 まだ、牧歌的であった私の学生時代、機動隊員が重いジュラルミン盾を抱え構内を学生と追いかけごっこ。いつの世も貧しい若者が政治家に悪用されるのです。そう、公安も来てましたね。当時は年配の学生も結構居ました。寮生でも、自分の弟を進学卒業させて後入学してきた方もいらっしゃる時代。しかし…公安君…可哀想だが、人相の酷さで一目瞭然、知らぬがほっとけ状態でした。彼らも好き好んでそんな仕事をしているとは思いたくありませんが、「職が人を作る」というのもあながち否定できません。いまは沖縄で機動隊員と共に弾圧に加わっているでしょう。

さて、そんなこんなで、寮生活は昼夜逆転という天国状態。大学には季節の変わり目に行くような体たらくであった。
 瞬くうちに時は去り、目出度く5年生に進級。寮は4年間しか居られません。隣市のアパートに転がって居ました。あれ?マズイ!

迂闊巴琴は生来のもの。マズイなあ、6年生じゃね、いくら何でもかっこ悪い、というか、親への義が立たぬ。あくまで律儀な巴琴でした。

全力で卒業へと奮起し、5年生後半はレポート卒論に没頭しました。もちろん、必修科目で落としていた科目の教授室へ駆け込みました。

「う〜む、巴琴君、キミ〜出席ゼロだね〜」
「はい!申し訳ありません!」
「う〜む、巴琴君、レポートも提出ゼロだね〜」
「はい!申し訳ありません!」
「う〜む、巴琴君、試験も1回も受けてないね〜」
「はい!申し訳ありません!そこで何とかお願いしたく伺いました!何でもやりますから、どうにか宜しくお願い致します!」

こんな感じで問題の、四人の教授にレポート提出で認定する約束を取り付けた。
いやあ、大変な日々、レポートはもちろん各1本では済まない。秋の日のヴィオロンのため息状態で、因果応報、頑張りました。しかし、難物教授が1人いて、2本出して合格したのに認定を渋る、卒業が近づいて焦り、その教授室に押しかけ

「何とかお願い致します!」
「ふむ、しかし、無理だな」
「そこをなんとか!何でもやります!」
そこで教授は新たな要求を出した。
「じゃ、巴琴君、卒業後にまたレポートを提出しなさい。]
「あ、ありがとうございます!」

かくして卒業日、留年生で卒業の決まった同期の連中と一緒に証書を授与されたのだった。その時も遅刻し、授与役の目尻がつり上がっていたのを覚えている。

へへへ、卒業さえすりゃこっちのものさ。

甘い。しっかり教授から課題が送られてきた。
前回書いた中央高校に奉職して直ぐである。
私はその教授に実は敬愛の念を抱いていた。本当に課題を送ってくれたと感謝した。
出したレポートは「優」評価を戴いた。しかし、また課題が来た……もはや気力は失われていた。現場デノ昼予備校、夜定時制の二股勤務で更に採用試験に向けての準備(これは実はしてない)もあった。朝、予備校生がアパートに押しかけて、起こしてくれる。「先生!授業!」と言いながらインスタントラーメンを作ってくれたりする。嫌う理由は全く無い。予備校が終わると昼食、よく生徒とフレンチレストランに通った。フレンチと言っても、カレーオンリーである。小さな新しい店で直ぐ覚えてくれてサービスしてくれた。そんな訳で、新たなレポートはとうとう出せずに過ぎてしまったが、お咎め無しであった。

私は学生寮でも教授でも恵まれていた。

ありがたいことである。

 

この歌手の絵、私の学生時代に似ているので選びました(^▽^)/

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