pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

亡国

 

 

 中3「教科書理解できない」25%

 

 

「中3「教科書理解できない」25%…読解力不足」
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/13653610/

「社会生活を送るのに最低限必要な読解力の不足が懸念される状況だ」

 

 今更なんだ、というのが率直な感想だが、こんな報道を読むと否応なく過去の経験が胸を突き上げてくる。

 埼玉の西部の中学校に新任として着任したが、即、新入生の担任となった。ピカピカの1年生であるが、いやはや可愛かった。しかし、授業を通し、まず漢字力の不足している生徒の多い実感を得た。5月、学校の了解を得ずに補習を組んだ。1年生全クラスの国語を受け持っていたので、全クラスに呼びかけた。「漢字に自信のない者は遠慮なく来なさい」1年で4クラスだったが、集まってきた子は1クラス分の人数だった。上記報道の25%に符合する。

 私は3年後に高校に移った。それから高校異動を繰り返させられたが、新入生を持つ度に必ず「国語は好きか嫌いか率直に答えてくれ」と問いかけることにした。いわゆる底辺校から進学校まで、数名の例外を除きほぼ全員が「嫌い」に挙手した。

 中学校卒業したての生徒たちの、国語への嫌悪が私の36年間の勤務中途切れず続いた訳だ。今回の調査では、「社会生活」云々の懸念が示されたが、そんな懸念は昔から現実にあり、むしろ現在の社会状況から見て当然である。

 過去にも触れたが、この国の学校教育は敗戦後、一貫して屋上屋を架す愚を積み重ねてきた。全て、官僚の「手柄」のためである。何か新しく現場にさせる事が手柄である。
 保護者なら分かるだろう。小学校から高校まで過密スケジュールに追われる子どもの姿を。

 既に小学校卒業の段階で授業は嫌いになってくる。中学校で嫌いが確定するのだ。嫌いでは学習は身につく訳が無いのだが、そこに「成績」という圧力をかけられた生徒たちは学習にしがみつかざるを得ない。親の期待に応えようとひた向きに「成績」に努力するから、進学校でも国語は嫌いだが勉強は熱心という異常性が生まれてくる。

 もちろん、学校の教師たちも大概は「成績」のみに拘る。現在はそれが教師の「出世」の出汁となる。偏差値毎に綺麗に分けられたピラミッドの学校が出来上がり、頂点は教育長であり、その下に校長となる。教師らは管理職への阿諛追従の他、部活成績や受験実績により吸い上げられて行く。このような中で、「できない」生徒は「お荷物」扱いとなる。学校現場における生徒児童へのネグレクトは親のネグレクトより早く現れている。

 親と学校からネグレクトされた子どもたちがどうなるかは論を俟たない。
 また、「成績」に取り憑かれた子どもらがどうなるかも論を俟たない。

 進学校とはケチ臭いエゴイスト養成機関である。不気味な眼差しで成績に異常に拘る。

 私は進学校では現代国語を受持ち、受験指導を一切やらず、生徒らは2年生の終わり頃になって、ようやく「現代国語は面白い」と熱心に取り組むようになった。好きになれば成績など簡単に着いてくる。そうなるまで2年間かかった。後で同僚に教えられた事だが、私より若い「熱血」教師が古典を受持ち、受験指導に明け暮れて私に対抗して生徒を惹き付けようとしたが、「巴琴先生の勝ちでした」と伝えられた。なんだ、コイツラ。その熱血教師はその後校長になった。

 底辺校というか最底辺にあるのが定時制高校である。私は教員の最後に、大卒新任で行った定時制高校があったので、締めも定時制にしようと希望して入った。全科目零点で入学して来るが何人もいた。名前だけはかろうじて書ける生徒。ご存知のように、高校入試は欠員補充を義務付けているから欠員がある限り希望者は「合格」させる。さすがに全科目零点はないだろ?あるんだよね、これが。
 こうなると、国語が好きか嫌いかなどのレベルではない。社会生活最低限必要な?レベルではない。前に書いた福島の定時制高校の世界は、古き佳き定時制高校の最後だった。

 ざっと思い出して、小学校から異常なカリキュラムと異常なお受験思想に方やネグレクト。中学校で荒れてしまうのは至極当たり前。25%というが関心の無さから言えば100%近いのだ。?国文やら文学系がある?何を言ってる。偏差値で振り分けられただけの話さ。


 そんな中で、出世だけが目的の教員世界となり、高校では偏差値中以下の学校はオマケ扱い。


そんな状況から見て、今のテレビの白痴的惨状やらマスコミの、政治の狂態は寧ろ当然の姿である。


「私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語である。」


 多難の歴史的民族的問題を抱えてきたルーマニアの思想家エミール・ミシェル・シオランの言葉だそうだが、島国根性の染み付いた我々には実感はそれほどでもないだろう。それを幸福と感じるのは良いが、おめでたいにも程がある。
 国語問題について、福田恆存三島由紀夫など文学者たちが、最近では数学者の藤原正彦が警鐘を鳴らしているが笑わせる。木を見て山を見ずの愚がまる出しである。

国語問題、教育問題の本質は政治であり、行政である。

 


「私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語である。」
この言に従えば、わが祖国は既に崩壊寸前である。

 

また、個人としてこの言に従えば、関心の無さを加味したら個人の「個」の喪失寸前なのである。

 

まぁ「美しい日本」と声高に言う総理大臣や政治家からして国語はダメだしね。彼らも「個」は無い。「欲」が肥大化しただけであり、国民の鏡である。

 

 

 

 参考
昭和23年国語必修単位9
平成15年国語必修2〜4単位
因みに、日本語の骨格である漢文は無きに等しくなった。