pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

『ルートヴィヒ』

「喜びにつけ悲しみにつけ、至福をもたらすのは愛のみ」

『神々の黄昏』第3幕の終結部分、「ブリュンヒルデの自己犠牲」の語りに於けるワーグナーの案の一つがこの台詞であるという。(ウィキより)

 その愛はキリスト教の愛であり無宗教者の私が云々する事では無いか、『ルートヴィヒ』の主人公ルートヴィヒ2世には神の愛も現実の愛も無い悲惨な人生であった。彼に有ったのは詩や神話的世界への憧憬とワーグナーの音楽への傾倒であり、己の美意識と幻想(美意識そのものが幻想ではあるが)の可視化の為に国家財政を傾けてまで、城を建設した。戦争の嫌いな彼は、そんな現実逃避の末に最後は精神科医による「診断」(つまり、見立て)で王位剥奪、幽閉の身となる。

 

 この作品は2度目の鑑賞となる。昨日、新文芸座で観たのだが、完全版というのも関心があったが、何より監督ヴィスコンティの創作意図を確認したかったのだ。

 また、演技の素晴らしさもある。ルートヴィヒ2世を演じたヘルムート・バーガーの女性的美はルートヴィヒ2世の美しさに劣らない。ヴィスコンティに愛されたのも頷ける。ロミー・シュナイダーも顔負けである。

 作品は全てにおいて豪華絢爛、欧州の美を建築物から内装、美術品、薔薇の配置まで完璧な誂えで描き、優れた映画はみなそうなのだが、陰影の描写は卓越している。

 ヴィスコンティはイタリア貴族の出である。若い頃は共産主義者でもあった彼が、『ルートヴィヒ』制作中の晩年、脳梗塞?で半身不随の車椅子生活となり、更には映画会社を2つか3つ潰してまで執念を燃やした作品である。

 なぜ。

 なぜ彼は芸術至上主義とも言えるこの作品を完成させたか。

 

https://www.google.co.jp/amp/hirahi1.seesaa.net/article/443474264.html%3Famp=1#ampshare=http://hirahi1.seesaa.net/article/443474264.html

「数に物を云わせた「大衆」とやらが作りだした、
現代社会の醜悪さ猥雑さに。
美しき神々の末裔たる「王」を駆逐し、世界の構築を
任された庶民が作り出した社会の、あまりの下品さに・・・・・」

「その世界から目をそむけるために、耽美の世界に遊ばざるを得なかったのだろう。

現実に絶望して美に耽溺する・・・この映画のルードヴィヒはそのままビスコンティの肖像である。

そしてまた、この映画は王達になり変ってビスコンティの成した、大衆への復讐でもある・・・・

ビスコンティは圧倒的な王族の美意識で大衆の魂を奪っておいて反問するのだ・・・・
かつて王たちの作り上げた美の高みに、お前達は到達できるかと・・・・」

 

こちらのブログのご意見に共感する。

ただ、復讐はないだろう。なぜなら貴族たるものが大衆への復讐なぞ考えるだけで、屈辱でしかないからだ。高踏的精神が貴族主義である。従って、ヴィスコンティにあるのは大衆への諦念、絶望であろう。そこから開き直っての貴族的美意識に耽溺する姿を現代にぶつけたと理解する。従って、この4時間を超える大作は受賞していない。

 

美は大衆化できるか。

 

そもそも、美とは何か。

 

 ヴィスコンティの圧倒的な美意識はそれだけでも観る価値がある。2度目の鑑賞でその凄さが実感できた、いや、堪能した。翻って、しかし、とへそ曲がりな私は思う。あの美しさは確かに圧倒的であるが疲れると。キリスト教に縛られた愛も疲れる。バイセクシャルだったヴィスコンティも疲れ切っただろう。それでも耐えるのが貴族主義である。

 

 そして、へそ曲がりな私はまた呟く。

 

「野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします」源氏物語桐壺巻

ここに溢れる美意識が私には合っていると。

 

  見わたせば花も紅葉もなかりけり
        浦の苫屋の秋の夕暮れ  定家

 

  名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉

 

そして、謡曲であり、近松であり……キリがない。

 

 平安朝に創造された「もののあはれ」という美意識は単純な意識ではない。現代的に言うならば、それは思想だ。巨大な仏教的思想を基盤とした王朝の美意識である。

 その精華を踏まえながら『能』が誕生した。舞台芸術として、それは日本的総合芸術の完成であった。

それらが正しく芭蕉へと継承されて「わび」「さび」の境地へと至ったのである。

 

 うっかり踏みつけてしまいそうな野花、すみれや、茫々たる薄に、嵐のあとの乱れた庭の草むらに、粗末な「苫屋」の風情に心が傾斜する。

 

つまり、私にとっての美意識とはそれらである。

ヴィスコンティの貴族的美意識の圧倒的な力ではない、何事も消えてゆく美が私には調和する。

 

済みません。

またとりとめのない話となりました。


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