pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

自民党大勝の意味


予想通り自民党の大勝であったが、私は小池氏が都知事となった時に、既に政治には愛想がつきかけていた。小池氏は日本会議に属し、安倍総理と何ら変わる所がない。恐ろしく傲慢無知にして、権力欲の亢進した人たちなのだ。

マスコミに踊らされる都民の姿は、相も変わらずであった。国政選挙をタレント選びと変わらぬ根性で示した愚かさは都知事選が証明している。

「キャー、石原ぐんだ〜〜ん!」と黄色い声を上げていた都民である。
既に1957年、今から60年前に、大宅壮一がぶち上げた「一億総白痴論」はかなり現実化してきた。


「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。
— 『週刊東京』1957年2月2日号「言いたい放題」より


60年前でこうであるから、現代のマスコミ、就中テレビを大宅壮一が見たらどう理解するであろうか。ハクチどころか、狂人にさえ見えるであろう。

前日記で学校を取り上げた。
私の文章をお読み頂いている方にはお分かりだろうが、今回の自民党大勝も、この国の国民が、子どもの事さえ眼中にないという証左である。

一体、大人の存在理由は何か?
馬鹿らしくて説明するのも嫌になるが、大人は子ども有っての大人でしかない。それは実の子どもではない。

社会的存在としての大人であり、子どもである。
子ども無くして大人だけはあり得ない。社会で最も大切な存在、それが子どもであり、子どもを社会の中で育て守る事が大人の存在理由である。

他にもっと大切な大人の存在理由があるなら教えて頂きたい。

   教育は国家百年の大計である。

この言葉は紀元前400年ほど前の、中国戦国時代の思想家、管子の権修第三に置かれた言葉から生まれた。
そこでは、

「一年の計は穀物を植えるに及ぶものはなく、十年の計は木を植えるに及ぶものはなく、終身の計は人を植えるに及ぶものはない。
一を植えて一の収穫があるのは穀物であり、一を植えて十の収穫があるのは木であり、一を植えて百の収穫があるのは人である。
これを的確に植えるは、神がこれを用いるようなものである」

となっているが、その終身の計を国家の計と置き換えたのである。
すなわち、

「優秀なリーダー不在の集団・組織・国家はやがて亡びるということであり、不断の人材育成・教育が問われてきた結果が「人類の歴史」であるとも換言できる。」
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/707003/589884/83043072


私が前ブログで書いた意味である。
優秀なリーダーは優秀な国民によってしか育たない事を日本人は示した。大宅壮一が嘆いた通りである。

学校教育は瀕死の状態である。
そう指摘されれば、「ふん、まあそうだな」と大方は認めるが、我が事として思考する者は少ない。

子どもたちが塗炭の苦しみを味わい悶え、心を病み死に至っても思考することは無い。

これを大人と呼ぶことはできない。
すなわち幼稚なエゴイストでしかない。

教育は国家百年の大計である。
然らば、日本は滅ぶという所以である。

しかし、今回の選挙で立憲民主党が現れた。細野や前原などの魑魅魍魎は緑の狸党からまた自民へと移るだろうか。こんな猥雑な連中が立憲民主党党に居ないだけマシである。枝野氏は今のところ期待に値する。また、不動の共産党や、消滅寸前である社民党も存在する。

国民の3割が覚醒しているなら絶望するのも早計である。

自民党はカネをばら撒くしか脳が無いというか、ばら撒かれた小銭に飛びつく国民であるからか、学校教育は危殆に瀕しているが、その再生は制度を根本的に作り変えねばもはや不可能である。その知恵を枝野氏立憲民主党共産党社民党が発揮できるか。


私たちは子どもたちを見殺しにして、ニンジンに喜ぶ外道にはならない。情けないプライドであるが、大人としての最低のプライドである。

 

在りし日の那奈、とハチ

f:id:pakin:20171023000543j:plain

-Budapest Gypsy Symphony Orchestra Cigánytűz 2008

まことに苦難の道を歩んできたロマシンフォニーの圧巻の演奏です。

www.youtube.com