pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

暖かき雨降る句会霜月尽 句会第8回



 

霜菊のつつましやかに色揃へ

 
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 霜菊は冬の野菊だ。もちろん旧暦の冬、いまは晩秋の候。立派に仕立てられた見事な菊の姿に対し野菊は田畑の畦や路傍に咲く。道行く人の一瞥はあっても、大きな景色の点景の一つである。しかし、その野菊も束にして見るとその多彩さに驚く。尤も、その美しさから園芸品種として鑑賞されているらしい。

 


霜を踏む猫の足にも朝日さす

 
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 猫は炬燵で丸くなると言われている。我が家ではミーとモン太郎が寒がりで、モン太郎ときたら寝るときは必ず布団に潜り込んで私の腕枕でひとしきりゴロゴロしたあと寝息を立てて眠る。ところが、ハチは未だ外が大好きで、霜の朝だろうが雪の朝だろうが外で飛び跳ねて遊ぶ。それじゃ猫じゃない犬だ!と笑われた。

 

人けなく残照の果て冬の駅

 
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 果て、とは、残照の尽きるところ。残照は言うまでもなく陽の一日の終わりの輝き。詠んだ場所は信濃追分駅で、プラットフォーム、線路が伸びる果て、に残照の尽きる消滅点が重なる。残照の消滅点は則ち西方浄土に向かう。ホームに人がざわざわ居れば句にならなかったな。残照を比喩と見れば、その消滅点は生の終局点となる。

 

朝霧にしたたる如く実南天

 
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いつしか南天が庭の中でさえ増えて小さな実を結ぶようになった。その実南天が朝霧に濡れて水玉をしたたらせると、その朱色が鮮やかに輝いていた。

 

陽だまりの谷間のやうなる冬の道


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 山を散歩した折の句。登り下り左右に曲がり進む細い山道だが、山に包まれたように暖かな日差しが溜まっているように感じた。

 


早いもので、いよいよ師走。
と言っても何ら変わらぬ日常だが、変わらぬ中に変化あり、明日から週4回の勤務が始まります。4回というのは有り難い。また、勤務開始月に給与が定額で支給されるのも良い。遠距離通勤なのが玉に瑕だが、それもまた良しというのは、勤務地が母校の街であるから、古巣に帰るようなもので嬉しい。
 かつては神田に次ぐ古書店街だったが時流の中で古書店は衰退一途。昔馴染んだ喫茶店も無い。それでも学生が溢れる街で若さが肌で感じられる。


 句会の方はもはや句会にならぬと宗匠は前々回より単なる合評会とした。詠んで来た句を一句ずつ掲示して感想を言い合う。上記の五句のうち、始めの3句を私は出した。「残照」の句は特に理解しづらい。説明しないと理解出来ないのはだめだという宗匠であるが、それは私の俳句の考えではない。読み手があって成り立つのが俳句だと宗匠は言うが、それは表現というものの当たり前の属性である。読み手に理解して欲しいというのは当然だが、私は独善的で、理解して欲しいがために読み手の誰もがすぐ解る句作をするなど考えたこともない。

 句会参加は来月以後勤務日の関係で未定である。句会を私の参加可能な土曜日に変更しても良いと仰る方々もいるが、その為に一人でも他の人が参加出来なくなるなら私が参加しなければ良いだけの話である。
 平日の何曜日が空くか、明日分かる。