pakin’s blog

主に創作を主体とします。ただし、人権無視の最たる原発問題や、子どもの健康や命を軽んじる時事問題には反応します。

第十三回句会

ゆく春の匂ふ霞の野道かな

 

中七の「匂ふ」が如何なものかとのご指摘を頂いた。
これは日記の本文で記した童謡「朧月夜」の歌を思い出しながら詠んだ事を説明した。折しもそんな麗しい日々である。道を歩けば容易に分かる。

「夕月かかりて 匂い淡し」と「さながら霞める 朧月夜」の2つの表現から拙句の「匂ふ霞」を引き出した。

みなさん、私より歳上の方々なので「朧月夜」の歌を口ずさんだり、納得して頂いた。

「匂ふ」という古語には、


  春の苑紅にほふ桃の花
      下照る道に出で立つ乙女

という万葉集の有名な歌に使われている「美しく映える」という意味がある他、現在の「匂う、香る」や「染まる」などの意味がある。

 
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   ゆく春のかたみに見ばや青き梅


この句では「かたみ」の意味が問題となった。現在の意味では、遺品などの「かたみ」であるが、古語では「思い出の品、思い出す手がかり」などがある。
助詞「ばや」は願望の〜したいものだ、という意味である。

拙句ではその両方の意味を重ねている。詠み手の私にとって、一日一年は未来の限定された「時間」であるから、大袈裟だが、「青き梅」もまた一期一会。また、季節が初夏となり、今春の思い出ともなる。

 

   春の闇狂ふ眼(まなこ)の隠れゐる

 

この句が一番???となった。

この「狂ふ」のは私自身の中の「狂気」であり、また、自分の周延としての外界(社会)に内在する「狂気」である。

狂気とは精神病という病態としての意味ではない。「正常」の人間の中に潜む「狂い」である。誰しもがその狂いを大なり小なり隠し持っているはずだが、その自覚の無い者はそのまま(狂気)の人となる。自制心がなくなること。我が国の総理始め欲ボケの政治家官僚はその象徴だろう。既に終末的な「狂い」がなんの衒いもなく吹き出す様は異様である。従って、彼らの「狂い」は全面的に表に表れているので、拙句の対象からは外れている。つまり、彼らは論外。

 

人間は自らのうちに隠れている狂いを自ら修正し続けなければならない苦しい生き物である。狂いは最期まで人生に隠れているのだと思う。


そんな事は句会ではとても説明できるものではなかった。1人、川柳を嗜む方が、この句意、イメージを汲み取って賛意してくれた。


さて、以上でもお分かりのように、私の句は俳壇の主流である「わかり易さ」を無視している。私は俳句も詩であると理解しているので。全く独りよがりで修練も程遠い作品である。なにせ「修練」嫌いでもある。へそ曲がりでもある。独善の最たるものである。お許し頂く他は無い。